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★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
84: 2002/10/27(日) 23:26 左平(仮名)[中国] > (2001/08/24(Fri) 21:42:18) ふっと気になったので、手持ちの宮城谷作品から、士会の血族をチェックしていましたら、、まぁ、子孫の幅の広いこと、広いこと。こんな具合です。 @西周の時代、岐山(長安の北西のあたり)の北方に杜という国があり、その君主を杜伯といいました。杜伯は無実の罪により宣王に殺されるのですが、その子の一人である隰叔(しゅうしゅく)は晋に亡命しました。彼こそが士氏の始祖です。また、杜伯の子は他にもいたでしょうから、杜氏を名乗り続けた者もいるはずです(詩聖・杜甫のご先祖、杜預の祖父・杜畿は京兆郡杜陵の人といいますから、杜伯の子孫という可能性あり)。 A士会は末子(字は季)ですから、当然兄がいます。士会の兄の系統(又は士会の子の一人、士魴)の系統はそのまま士氏を名乗り続けたと考えられます。 B士会はその食邑名から、随会とも范会とも呼ばれます。したがって、随氏・范氏も士会の子孫という可能性があります(なお、遠交近攻策を提唱した秦の宰相、応侯・范雎も士会の子孫を自負しています−『青雲はるかに』より)。士氏は、士会のあと、士燮−士カイ(勹の中に亡)−士鞅−士吉射と続き、趙氏との戦い(范氏・中行氏の乱)に敗れ、晋を追われます。彼等は斉の方へも行ったといいます。 C士会は、一時秦に亡命していました。趙盾・郤缺の策によって晋に呼び戻されたのですが、その時、秦に残留した族人がいます。彼等は劉氏を名乗った(!)そうです。 杜氏・士氏・随氏・范氏、そして劉氏はすべて、士会の遠い遠い一族と言えなくもありません、、。 秦氏の子孫についてですが、、たしか、羽田孜・元首相も確かその一人だったかと。首相になった当時、TVで聞いた覚えがあります。、、どうみても始皇帝とのつながりは見えないんですけどねぇ、この人の場合は。
85: 2002/10/27(日) 23:26 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/25(Sat) 00:27:19) うお!? かの士会の血縁が、こうも広範に散らばるとは!? 彼や重耳のように、流浪だの亡命だのを繰り返した結果、全土にその胤を残すパターンもあるのですね〜。そしてみんなが別々の氏を名乗るからよけいにわけがわからない! どうして中国人は姓と氏を分けるのですか〜! 羽田元総理も、秦氏ですか…。あ、ハタつながりということで…。でも、結構本当っぽいですね〜。なら羽田さんも趙雲の血縁グループに!
86: 2002/10/27(日) 23:28 左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 13:54:09) ご先祖ネタで趙雲と陳到の差が開く一方なので、陳到のご先祖ネタ(相変わらず根拠は薄弱ですが)も一つ。陳到(字は叔至)、汝南の人。、、陳氏という事から、当然、春秋時代の陳国との縁が考えられます。汝南はかつての陳の地よりだいぶ南にあるのですが、、何と!張コウは(吉川三国志では)三度死ぬ、ではありませんが、陳は三度滅んでいるのです!その一回目は、覇王・(楚の)荘王の時の事(ちなみに、二回目も三回目も楚によって滅ぼされています)。この時、南方に抑留された陳の人々もいるでしょうから、その末裔の一人が陳到という事も。なお、この陳の公室の先祖は、虞の閼父といい、周王室の陶工の長でしたが、その子は周の武王の長女を娶り、陳国を開いています。さらに、そのご先祖は、何と太古の帝王・舜! 以前の士会の一族ネタで出てきた、杜陵という所ですが、、伴野朗氏の『中国・反骨列伝』の中に、西安(かつての長安)の東南という記述がありました。杜伯と杜預とのつながりはどうなるのでしょうか?、、それはさておき、魏に蘇則という人がいたので、まさか、と思い「三国志全人名事典」(徳間書店)でチェックしましたら、扶風郡武功の人、とあります。扶風郡は長安近郊ですから、上述の杜陵で生まれ育ったらしい、典属国・蘇武(匈奴に十九年もの間抑留されながら、ついに節を曲げる事なく漢に帰還したという傑人。悲運の名将・李陵の友人ともいいます)の名が。蘇武は期間後も二十年あまり生きたといいますから、彼の子孫が一人くらいいても不思議ではありません。
87: 2002/10/27(日) 23:28 竜[関東] > (2001/08/26(Sun) 20:18:34) 杜甫の詩のなかに自分の家系を誇るものがあって、それによると 陶唐氏堯帝の子孫で、杜預が十三代祖先であるとしているそうです。 ちなみに杜預の先祖である杜周(漢書に伝有り)はもともと南陽郡杜衍の人ですが、 子の杜延年が杜陵に移り住んだんだそうです。 杜周は陶唐氏の末裔を称していたそうですから一族発祥の地に戻ったようです… 総合すると、陶唐氏→杜伯→杜延年→杜預→杜甫 という感じでしょうか。
88: 2002/10/27(日) 23:28 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/26(Sun) 22:19:47) おお、今度は陳到が! そうですよね〜、趙氏が黄帝まで遡った以上、陳氏も神話までいってもらいましょう(;^_^A で、陳公の血筋ですが…なるほど、帝舜の末裔ですか! となると姚姓。すると虞翻あたりと同姓ですね〜。なんで中国人って姓と氏を分けるのでしょうか…。 さておき、杜預!こちらは帝堯!姓は伊祁!……いま私は姓氏一覧を参照していますが、当時の人々は当然、氏を聞くと即座に姓を答えることが出来たのでしょうね〜。同姓不婚とかもあったでしょうし…。で、杜預は帝堯の血を引く杜家に産れ、13世後に杜甫をうむ、と…。 なんだか呆然とする話ですよね〜。 他にも、魏の西方面の押さえである蘇則! これが蘇武の子孫!いま十八史略で確認しましたが、なんでも部下の不始末を償うために、いちど剣で我が胸を刺し通し、死んだとありますね〜。で、匈奴の秘術で蘇った、と。氏に忠実な人物ですね〜。
89: 2002/10/27(日) 23:29 左平(仮名)[中国] > (2001/08/26(Sun) 23:06:16) 秦氏関係で、もう一つ思い出しました。確か、桓武天皇の母は秦氏の女(むすめ)だったかと。日本史の百科事典でずっと昔に読んだ記憶があります(違ってたらごめんなさい)。ためしに古文の辞典で皇室の系譜を見ましたら、桓武天皇から今上天皇まで、ず〜っと辿る事ができるのです(南北朝などもありますが、それをも乗り越えて)。と、いうことは、、。書いてて、こんなに話が広がっていいものか、と思わず自問してしまいます。
90: 2002/10/27(日) 23:30 松竹梅[関東] > (2001/08/27(Mon) 00:52:30) 法正の曽祖父は法雄といって、どうも田斉の襄王の子孫らしいです。ということは、法正には陳無于の血が流れてるのか…と思えばなんとなく納得かも。ということで、法正も先祖は帝舜ということになりました…でいいのかな?
91: 2002/10/27(日) 23:30 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/27(Mon) 23:49:06) こんどは天皇家〜!! 秦氏おそるべし〜! あ、いま趙雲様のご先祖のページを更新しました〜。それ以後に出てきた話題の人物を追加しております〜。 そして法正! こちらは斉の襄王!? …と、松竹梅様、その法雄という人物は三国志には記述されてないです〜。ソースは三国志集解ですか〜!? いいなあ…。
92: 2002/10/27(日) 23:30 松竹梅[関東] > (2001/08/28(Tue) 07:53:18) ソースは『後漢書』38巻法雄伝と、83巻「逸民列伝」ちゅうの法真伝です。 法正の祖父、法真は門下生数百人を抱える「関西の大儒」であり、寡欲にして官に仕えなかったという、法正の祖父だとは到底思えない人物です。ちなみにこの人「玄徳先生」と呼ばれていました。法正と劉備の意外な接点?
93: 2002/10/27(日) 23:31 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/29(Wed) 00:20:38) うお!? またしても後漢書! あう〜、また県立図書館から借りなきゃ…ええと、38巻ですね〜。 それにしても、「三国志」になくて「後漢書」に伝のある有名人(関係者)、あるいは後漢書の方が詳細な人物って、どれくらいいるのでしょう…? 徐栄の末路なんか、三国志には載っててませんでしたよね〜。
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