呉粲が吾粲で大誤算(謎)
2:2002/10/27(日) 22:25

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:04:30)

玉川様! 四方山のほうで精密な吾粲呉粲情報ありがとうございました〜!
というわけで以下抜粋〜!!

>吾粲は字を孔休、寒門の出身ながら地位を上げ、
>222年には呂範、賀斉らと曹休を破る。
>また呂岱と山越討伐にも従事して、後に太子太傅に昇進。
>しかし、「二宮の変」で魯王(孫覇)派の讒言をうけ、誅殺された。
>彼には独立した伝があります。

>一方「呉粲」は、「顧雍伝」の、顧邵(顧雍の長子)
>に関する記述の中に登場します。
>「卑賤な身分」から顧邵によって取り立てられ、
>太子少傅となったそうですが…

>実はこの二人、出身がともに呉郡烏程なのです。
>出身も、ともに低い身分の貧しい家だそうで、実は同一人物?
>太子「太傅」と「少傅」の違いはありますが…

>断定はできませんが、何やら怪しいです。


 もし呉粲=吾粲説が成り立つとすれば、あの蒼天航路の目玉ボウヤは、想像以上の大物!しかもカッコイイ死に様です(;^_^A
それにしても顧雍の息子にそれほど慧眼の持ち主がいたとは…。となると、呉粲も顧氏の故吏!大姓である顧氏の門閥として、太子の傅人に任じられたのも肯けます。
1-AA