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呉粲が吾粲で大誤算(謎)
1: 2002/10/27(日) 22:24 玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月06日 (月) 23時35分36秒 四方山掲示板の方で話題になった(私が広げたのですが)呉粲のお話です。 吾粲の方は、222年以前の記述に年代を特定できるものがありません。呉主伝の236年に登場した後、死は240年代後半でしょう。 で、呉粲ですが、彼について残っている記録は述べましたように顧邵とのカラミだけですが、こちらはある程度絞り込みが可能です。 と言いますのも、顧邵は呂蒙より早く死去しているらしいからです。呂蒙伝に、豫章太守顧邵の死後その後任について孫権が呂蒙に相談するという話があります。(年代は不明) つまり、顧邵は遅くとも建安年間中までの人物だったと考えられます。 その顧邵は人材登用に長けていたらしく、有為の人材を発掘しては、友人として遇しまた取り立てました。その一人が呉粲だったのです。 とすると、呉粲も建安年間に登場していることが考えられるわけでして、蒼天航路での登場(208年)もあながち間違いではないでしょう。 しかし。くだんの顧邵について調べてみると、またも異常事態を発見してしまったのです。 呉は瑞兆とよぶにはあまりにファンキー過ぎる事件が起きてみたり、死人が生き返ったり、自称神(危ないなあ)がいたりとワンダーランドっぷりを十二分に発揮していますが、どうやら時間軸も少々おかしいようです。 それは別スレッドで…
2: 2002/10/27(日) 22:25 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:04:30) 玉川様! 四方山のほうで精密な吾粲呉粲情報ありがとうございました〜! というわけで以下抜粋〜!! >吾粲は字を孔休、寒門の出身ながら地位を上げ、 >222年には呂範、賀斉らと曹休を破る。 >また呂岱と山越討伐にも従事して、後に太子太傅に昇進。 >しかし、「二宮の変」で魯王(孫覇)派の讒言をうけ、誅殺された。 >彼には独立した伝があります。 > >一方「呉粲」は、「顧雍伝」の、顧邵(顧雍の長子) >に関する記述の中に登場します。 >「卑賤な身分」から顧邵によって取り立てられ、 >太子少傅となったそうですが… > >実はこの二人、出身がともに呉郡烏程なのです。 >出身も、ともに低い身分の貧しい家だそうで、実は同一人物? >太子「太傅」と「少傅」の違いはありますが… > >断定はできませんが、何やら怪しいです。 もし呉粲=吾粲説が成り立つとすれば、あの蒼天航路の目玉ボウヤは、想像以上の大物!しかもカッコイイ死に様です(;^_^A それにしても顧雍の息子にそれほど慧眼の持ち主がいたとは…。となると、呉粲も顧氏の故吏!大姓である顧氏の門閥として、太子の傅人に任じられたのも肯けます。
3:好き 2011/10/26(水) 12:19:54 ID:PmtJjtiT0 [moon@yahoo.co.jp] とろとろ・・・おっぴろげヾ(*′∀`*)ノ→ hemn.me/2011/
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