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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
13:2002/10/27(日) 22:31AAS
玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 20:32:27)
いえいえ、私の情報源って、結局正史(筑摩の三巻本)がほぼ全てで、後は斜め読み(ですらない)した晋書程度ですから、あまり偉そうなことは言えないのですが…
ホームページでは大歓迎…はもちろんですが、こと三国志ネタにつきましては、最近こちらのぐっこさんのHPに入り浸りなもので私の所の内容はお寒い限りではありますが、追って充実させていく所存です。
省7
14:2002/10/27(日) 22:31AAS
japan[関東] > (2001/08/08(Wed) 21:56:23)
>呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ…
『呉書』顧雍伝の冒頭に「朔方郡から戻ってきた蔡ヨウが呉に赴いたとき、顧雍に学問と琴を伝授した」という記述があります。
省16
15:2002/10/27(日) 22:31AAS
玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:03:57)
>あの蔡ヨウから名前の一字を与えられる
註でいう、蔡ヨウ(雍に通じる)の雍の字をもらった、というヤツですね。
オマケに、蔡「雍」の賛「歎」で顧「雍」元「歎」って、それじゃ弟の顧徽の字の子「歎」はおこぼれかい!みたいな。
省8
16:2002/10/27(日) 22:32AAS
松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 01:46:13)
やりました!顧雍問題は解決です!原因はズバリちくま正史の誤植!小南せんせ〜;
実はこの問題を調べるために、大学図書館から『三国志集解』を借りてきたのですが、それを見ると、なんと三国志本文の顧雍の享年が76歳に。盧弼の『集解』の「霊帝の建寧元年生まれ」という文を見るまでもなく、ぐっこさんの仰せられたとおりに顧雍の年齢が10歳アップです。いや、ちくま本の落とし穴でした(汗)
この調子で、凌統(当て字)問題、黄蓋問題も解決するといいなあ…
17:2002/10/27(日) 22:32AAS
松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:04:12)
ちなみに、『集解』のほうには吾粲問題について書いてあり、どうやら吾粲=呉粲で間違いないようです。でもどこから官職の差が出てくるのかは謎でありますが。
18:2002/10/27(日) 22:32AAS
玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 09:38:37)
なんと!ありがとうございます…(T_T)
調べてみれば分かるもので、というか、私もまだまだ知らないことがたくさんあるようです。
ところで、「ちくまの誤訳」だとすると、原文はどうなのでしょう?
省9
19:2002/10/27(日) 22:33AAS
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:04)
「三國志集解」!欲しい!「華陽国志」と並んで! あ、まえ大学図書館で「さんごくししゅうかい」ありますか!――って言って失笑を買いました。「さんごくししっかい」が正解らしいですね(;^_^A
で、顧雍問題にもとうとう解決が〜! ハイ、私も友人に貸してた三國志書籍全部を引き上げて調べましたが、徳間の正史全人物名辞典、潮出の演義大辞典ともに、顧雍の生年を168年としていました。まさに筑摩の落とし穴〜!案外この種の誤植・誤訳が他にもあるかも〜っ!?
それと吾粲=呉粲もほぼ間違いないですか〜ッ!? うわあ、集解欲しい〜!
20:2002/10/27(日) 22:34AAS
孫ぽこ[北海道] 投稿日:2001年08月08日 (水) 22時15分46秒
それでは、没年・生年詐称疑惑第三弾を^^;。今回の被告は呉の大物・黄蓋ジイその人です。
黄蓋は赤壁後は武陵や長沙の異民族統治を中心にやっていたとあり,そこから考えると,武陵を呉が領有したのは,呂蒙による関羽挟撃以降のことなので,219年の段階では生きています。その後,武陵→長沙の反乱を鎮圧した後,死亡しているので219年から229年の間に死んだと言うことになりますね。
省27
21:2002/10/27(日) 22:35AAS
玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:20:27)
ありがとうございます。アテになるとも思えませんが、参考までに三國志8で見てみますと…
一年刻みのシナリオが思わぬ所で力を発揮(^_^)
省21
22:2002/10/27(日) 22:35AAS
ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:33)
黄蓋まで!?(;^_^A
なるほど、黄蓋は武陵太守任命後に死亡とありますね〜。武陵が呉の領土になったのは関羽の死後だから、当然219年以降。が、黄蓋死後の兵を受け継いだ味好漢・孫皎は、呂蒙と同じく関帝に祟り殺されてます。これまた219年。219年というのは呉にとって転機の年ですね〜。荊州を得た代償として、名将・呂蒙、孫皎、そして黄蓋を喪ったことに…。
省12
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