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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
19: 2002/10/27(日) 22:33 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:04) 「三國志集解」!欲しい!「華陽国志」と並んで! あ、まえ大学図書館で「さんごくししゅうかい」ありますか!――って言って失笑を買いました。「さんごくししっかい」が正解らしいですね(;^_^A で、顧雍問題にもとうとう解決が〜! ハイ、私も友人に貸してた三國志書籍全部を引き上げて調べましたが、徳間の正史全人物名辞典、潮出の演義大辞典ともに、顧雍の生年を168年としていました。まさに筑摩の落とし穴〜!案外この種の誤植・誤訳が他にもあるかも〜っ!? それと吾粲=呉粲もほぼ間違いないですか〜ッ!? うわあ、集解欲しい〜!
20: 2002/10/27(日) 22:34 孫ぽこ[北海道] 投稿日:2001年08月08日 (水) 22時15分46秒 それでは、没年・生年詐称疑惑第三弾を^^;。今回の被告は呉の大物・黄蓋ジイその人です。 黄蓋は赤壁後は武陵や長沙の異民族統治を中心にやっていたとあり,そこから考えると,武陵を呉が領有したのは,呂蒙による関羽挟撃以降のことなので,219年の段階では生きています。その後,武陵→長沙の反乱を鎮圧した後,死亡しているので219年から229年の間に死んだと言うことになりますね。 ですから、個人的にはもし黄蓋が夷陵の戦いの頃に生きていたなら,おそらく戦線に参加したはずだと思うので,たぶん219年から222年の間に死去したと思っていました。 と・こ・ろ・が・・です。 孫皎伝に「黄蓋と兄の孫ユとが死去すると、彼らの配下の軍をも併せて孫皎が指揮を執った。」という記述があります。 ここを読んであれれれ??と違和感を感じたのですよ。孫ユが死亡したのが215年であり、関羽挟撃の前で武陵はまだ呉領ではありません。また孫皎が死亡したのは219年です。 となると・・・全ての記述が正しいとすると下記のようになります。 黄蓋は呂蒙の関羽挟撃のあった219年、十月まで生きていた。でその直後に武陵の太守になって数日のうちに武陵の乱を平定してその数日後には長沙の反乱の平定をして偏将軍に任じられた。所がその後すぐ死去。そこで孫コウが軍を引き継いだが、その孫コウも219年のうちに死んだ・・・・ なんと黄蓋も孫コウも没年どころか、死んだ月まで特定できる事になります^^;。こんなアホな事はない^^;。 という事でこれも誰かが嘘をついています^^;。さて犯人は誰だ?? >三国志集解 お、おでもほしいぃぃー、さんごくししっしっかい!!(山田たろー風) できれば和訳しくくでー、誰がー(爆)
21: 2002/10/27(日) 22:35 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:20:27) ありがとうございます。アテになるとも思えませんが、参考までに三國志8で見てみますと… 一年刻みのシナリオが思わぬ所で力を発揮(^_^) 注目の219年、この年は7月から開始されますが、黄蓋は登場しません。死亡扱いです。 孫ぽこさんが仰った通り、この時点ではまだ呂蒙の荊州攻略は開始されていません。というか、ゲームでは江陵に武将が多すぎ(^_^) このままでは、呉軍はうかつに手を出せません。 そうそう、ようやく(なぜか)えぢたー各種が入手できましたので、没年の設定を見てみますと、黄蓋は219年没ということになっています。 このゲームでは、「没年」と設定された前の年まで登場しているようです。 すなわち、諸葛亮の没年は235年に設定されていました。呂蒙は220年。孫策は201年。 面白いのは、220年1月に死去した曹操が、この年のシナリオは1月開始にもかかわらず登場しない(君主は曹丕)こと。 曹操の没年は「220年」になっていました…いや、それは確かに正しいといえば正しいのですが、ゲームシステム上は「221年」没で220年まで登場、にはなっていないのですね。 また、シナリオが存在しない235年以降に死去した人物については、実際の没年が設定されているようです。 話が大分それましたが、「三國志8」においては、黄蓋は218年ないしは219年に死亡したことになっているようです。ちなみに生年は154年。 凌統の生没年は189-237、何かと話題(笑)の顧雍は178-243。
22: 2002/10/27(日) 22:35 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:33) 黄蓋まで!?(;^_^A なるほど、黄蓋は武陵太守任命後に死亡とありますね〜。武陵が呉の領土になったのは関羽の死後だから、当然219年以降。が、黄蓋死後の兵を受け継いだ味好漢・孫皎は、呂蒙と同じく関帝に祟り殺されてます。これまた219年。219年というのは呉にとって転機の年ですね〜。荊州を得た代償として、名将・呂蒙、孫皎、そして黄蓋を喪ったことに…。 しかし、部長の仰るとおり、いかにもセセコマシイというかあわただしいシナリオになってしまいますよね〜。このままでわ。 この場合、年度ではなく状況を考えてみましょう。 本文では、「武陵の蛮夷叛乱し、城邑を攻守す。蓋を以て太守を領せしむ」 「蛮人が叛逆して立て籠もったので、黄蓋を太守として派遣した」という事です。……なんだか、関羽と命を削る攻防のすえ領有!…というカンジがしないような…? 妙にノンビリしている気もします。 ついでにいうと、この記述は「武鋒中郎将を拝す」のすぐ後に続きます。筑摩の正史ではこの就任を赤壁の記述とくっつけてますが(「赤壁の功績によって武鋒中郎将に任じられた」という具合に)、手持ちの和刻本では赤壁のあと註を挟み(トイレのあれ)、一行あけてから「拝武鋒中郎将。武陵蛮夷……」というカンジで続き、赤壁とは段落が異なります。 つまり黄蓋が武鋒中郎将に任じられてすぐに武陵太守になった、と解釈できなくもないです。
23: 2002/10/27(日) 22:35 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:48) となると、いつ孫権は武陵を領有したか、ということになりますね〜。最終的に孫呉が荊西を領有したのは関羽の敗死後ですが、その前に、いちど長沙や武陵あたりを暫定統治した時期はなかったでしょうか? 黄蓋が武陵太守ながら鎮圧した長沙の益陽県というのは、地図で見る限り洞庭湖の西南に位置し、かなり武陵に近く(手持ちの地図では衡陽郡)、湖を挟んですぐ北は周瑜の勢力圏である南郡です(ちなみに関羽軍が魯粛軍と対峙したのもこの益陽県です)。 ……以上、記述の章句と地理的環境から類推するに、黄蓋が「武陵太守」であった時期は、必ずしも「関羽の死後」でないかもしれません〜。周瑜が劉備に公安を貸す前、呂蒙の荊南攻撃が始まる前、魯粛との予備交渉がまとまる前…。 ああ、我ながら飛躍した理論だ〜。
24: 2002/10/27(日) 22:35 孫ぽこ[北海道] > (2001/08/10(Fri) 04:53:48) 私もそれを考えていました。つまり呉は関羽挟撃以前に武陵全部でなくても一部を支配していなかったかと? つまり魯粛の荊州東西分割以後です。確かショウ水を境に・・とあったと思うので、そのショウ水というのがどこを流れているのか、武陵の一部が呉側に来ていたのではないか?と。可能性はあるような気がします。ぜひ誰か調べて・・・お願い・・・あう・・・(泣)
25: 2002/10/27(日) 22:35 おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:40:21) わっかりました。孫ぽこどの! えっと、漢書地理志をつらつら調べていると、武陵郡の記述がありました。「高祖置く。戸数34177、人口185758、県18。」ふむふむ・・・・ 索県は現在の湖南省常徳市東北60里・・・ということは洞庭湖の西岸近くか・・・。孱陵は現在の湖北省公安の南・・・?公安と言えば、劉備が赤壁のあと周瑜が南郡に居座ったため長江の対岸に本拠地を定めた、あの公安ではないですか!ということは、武陵郡は長江と[シ元]水と洞庭湖に挟まれた地域のことなのか〜。なるほど〜。 と、言うことは長江と洞庭湖に挟まれた広大な湿地帯(雲夢沢)は武陵郡に含まれていた・・・。あれ?湘水がスゴイ遠いぞ〜。っていうか武陵郡と関係ないぞ〜。湘水の西側(益陽・湘潭など)はぜんぶ長沙郡だしな〜。 [まとめ]武陵は湘水と関係なし。しかし、黄蓋が鎮圧した武陵蛮夷とは雲夢沢もしくは洞庭湖の賊かもしれず、そこは武陵郡である。長江の南岸は武陵郡で、もしかするとそこら辺一帯は呉が領有していたのかも??黄蓋が赴任したのはそこら辺?? って全くまとまってませんね。三国迷でもない私が慣れない事をすると、こうなってしまう^^;ごめんなさい。これは明らかに間違ってる等ありましたら、教えてくださいまし〜。お願いします。 とりあえず出直してきますm(_ _)m
26: 2002/10/27(日) 22:36 おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:53:21) う〜ん。やっぱ↑のはオカシイ。公安は劉備領ですし。 え〜ん、だれかたすけて〜(泣)
27: 2002/10/27(日) 22:36 MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:54:24) 面白そうなのでROMらせて頂いていたのですが、お助け船をば。。 湘水は、おそらく「長沙のすぐ西を流れ、桂陽に至る長江の支流」ではないでしょうか? これはちくまの地図にもくっきりと記してあるので確認して頂けると思います。 現在、この支流の名称は「湘江」で、ここから単に『湘水=湘江』を連想しただけですが、 中国の地名は今でも結構残っているので、おそらくは間違い無いかと。 ちなみに、『湘水=湘江』ならば、長沙の西10kmくらいの所を流れているので、、、 湘水で領土を分けたなら、武陵郡は全然入らないでしょうねぇ。。(^^ゞ ありゃ!? 助け船になってない??(爆) あと、御承知かと思いますが、まだ領有していない地域の太守に任命される事もありますよね?(^^) この場合も、同じくである可能性は捨てきれないと思いますよ。 『張飛の司隷校尉任命』などは極端な例でしょう♪
28: 2002/10/27(日) 22:36 MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 10:00:54) あ、、、直前にカキコされちゃいましたね。。。あはははは(^^ゞ 連続カキコ申し訳ないですが、ちょっと補足〜〜♪ [シ元]水は洞庭湖から武陵を経て舞陽に至る河で、こちらも同じく現在の名称が[シ元]江です。 ちなみに中国語名はユワンコウ。でも日本語読みはシスイ、、、分からん!!(爆) 今、我ながら調べてみますと、極端な仮説を思い浮かんじゃいました。。。(^^ゞ 黄蓋が乱を平定したおかげで蜀から投降してきた巴・醴・由・誕などですが、 これを『巴=巴丘』、『醴=醴陵』とすると、、、黄蓋が赴任した地域は武陵ではなくなってしまいます(笑) そもそも、『巴』と言われると『益州の巴』を思い浮かべたくなりますが、 いくらなんでも、武陵の異民族の乱を平定しても『益州の巴』から投降してくるのはオカシイでしょう。。6(^_^; んで、南荊州の近くを見てみると、(どっかの注にもありましたが)『巴丘』は2つありまして、 洞庭湖の辺の『巴丘』と、豫章郡の南西に位置する『巴丘』、となります。 また、『醴』は武陵の近くには無く、長沙郡(長沙の東南)に『醴陵』という地名があります。 そして、『巴丘』と『醴陵』の間(つまり長沙と豫章の間)には標高1000mほどの丘陵地帯がそびえるんです。 (これらの地名は、全てちくまの地図に載っています) こういう所って、いかにも反体制派の民衆がいそうな気がしません?(笑) 豫章の周辺は常に呉の内患であったワケですし♪ つまり・・・ 陳寿の勘違いか、もしくは勘違いされ易い書き方をしてしまったか、 もしくは、、、またもや、ちくまの訳ミスでは?(笑) ちなみに、こうすると、黄蓋ジイがもうちょっと先に亡くなっていた可能性も出てきますよね?(^^)
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