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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
7: 2002/10/27(日) 22:29 玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月07日 (火) 00時52分08秒 【恐怖!呉国超時空領域再び】 超時空領域、またの名をディメンジョンスフィアー。(by長瀬室長) 凌(当て字)統の生没年に引き続き、またも呉に時空歪曲が発生しているようです。 呉粲について調べていたとき、顧邵に関する記述を読んでいたのですが… 顧邵は顧雍(178-243)の長子ですが、「若くして死んだ」そうです。27歳で豫章太守になり、郡にあること5年で在官のまま死去、ということは享年32歳。その後任の太守について、呂蒙は孫権から相談を受けています。はて? 呂蒙…彼の没年も、219年の末なんだか220年になってからなのかはっきりしませんが、仮に前者だとすると、顧雍とまったくの同年生まれと言うことになります。(呂蒙は享年42歳) その呂蒙より早く32歳で亡くなった顧邵…計算によると、彼の生年は一番遅く見積もっても188年。顧雍11歳の時の子供!? 一方目を転じますと、顧邵の子の顧譚、顧承兄弟は「二宮の変」に巻き込まれ、張休とともに交州へ流されています。 顧譚は「流されて2年目に42歳で交趾にて死去」し、顧承も「(交州に強制移住させられ)37歳で死去」しています。 弟はいまいちはっきりしませんが、兄の顧譚が245年かその数年後に死去しているのは確かなようです。すると彼の生まれは200年少し後。 これを基準に顧邵の生きた年代をある程度特定できそうです。 するとますます気になるのが顧邵の父、顧雍の歳。彼は子、孫と違い、唯一生没年がはっきしています。243年に66歳で死去、すなわち生年は178年。 死去した年は彼の伝以外に呉主伝にも書いてあるので確実でしょうが、生年が怪しいのでは…? どうも顧邵の生年がすでに180年代ぐらいまで遡りかねないようですし。
8: 2002/10/27(日) 22:29 玉川雄一[関東] > (2001/08/07(Tue) 00:52:41) ちなみに顧邵は「孫権のはからい」で孫策の娘と結婚していますが、顧譚、顧承の母が彼女かは怪しいです。といいますのも、父の孫策自身が175年生まれ、その娘が200年を過ぎた頃に子供を産めたものか… 実は、顧邵には(孫策の娘より先に?)陸氏という妻もいたようです。 整理しますと、 顧譚はどうやら200年少し後に生まれたらしい。 その父の顧邵は、おそらく孫策の死後にその娘と結婚した。 また、呂蒙より早く32歳で死去している。故に生年は遅くとも180年代と推測される。 しかし、顧邵の「父」の顧雍は178年生まれ。 よりによって、生没年がはっきりしているはずの顧雍まで怪しいというのも妙な話です。 やはりどこかのデータが間違っているのか? 私の計算違いというオチだったら恥ずかしいですが(*^_^*) 呉書って面白いですね。(そういうことか?)
9: 2002/10/27(日) 22:30 松竹梅[北海道] > (2001/08/07(Tue) 05:51:49) ここまであからさまにおかしいとなあ。もしかしたら『三国志集解』に何かヒントがあるかもしれないんで、今日大学にいって調べてみますね。あと、『呉書見聞』のほうに、救援を要請してみましょう。陳寿と韋昭、しっかりしてくれよ〜
10: 2002/10/27(日) 22:30 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:07:18) 下に埋もれてしまった凌統スレのようにタイムテーブル作ろうとして断念! このタイムパラドックスは何じゃ〜! いや、パラドックスというより生年の記述の不具合!私的には、生没年と享年が明らかにズレてるとき、享年のほうが正しい気がします(;^_^A 「このとき46才だった」とハッキリ言われると、妙に説得力が…。 しかし顧雍の場合だと没年から逆算して得られる生年と、息子の推定生年の差が近すぎる…。ああ、また「この中の誰か一人が嘘をついてます」状態〜!! やはり顧雍の生年をあと10年早めれば全てが上手くゆく換算なんですが…。 >松竹梅様 そうですね〜(;^_^A 確かに呉書見聞の御大方にもご出馬頂ければ、だいぶ楽になる、というか公論が出来上がって気が楽に〜。凌統スレも上げときますね〜。 それにしても当時に2ちゃんねるがあれば「先生、>>陳寿は厨房決定です!」とか罵られてたでしょうね〜。この種の矛盾ほどツッコまれるモノはないですし…。あ、そういえば四方山ではあの超超超面白いあずまんが三国志スレをお教え頂きありがとうございました〜(^^) これを機にあずまんが大王、読まれてみては?あんな良スレ見たことないです。
11: 2002/10/27(日) 22:30 玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 01:08:39) 今回はこんなカンジでしょうか。 呂蒙 ━━━━━━━━ 顧雍 ━━━━━━━━━━━━ 顧邵 …━━━━… 顧譚 ━━━━━━━━━━ 呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ…
12: 2002/10/27(日) 22:31 孫ぽこ[] > (2001/08/08(Wed) 19:36:05) はい。その役に立たない大御所がやってきました(;^_^A えー、この件についてですが、以前黄蓋の没年の整理をした時にも同じ事が起きました。どうやら呉書では【○○年にこういう役職についた】という記述の場合、あまり信用できないという気がします。が、この場合はたぶん顧雍の生年の方が怪しいですね。まさか顧雍さん年齢詐称していたのか・・・・・ それと玉川雄一さん。最近よくお名前を拝見させていただいてます。すごい博識ですねー。今度ホームページにも遊びに行かせてもらいますね。
13: 2002/10/27(日) 22:31 玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 20:32:27) いえいえ、私の情報源って、結局正史(筑摩の三巻本)がほぼ全てで、後は斜め読み(ですらない)した晋書程度ですから、あまり偉そうなことは言えないのですが… ホームページでは大歓迎…はもちろんですが、こと三国志ネタにつきましては、最近こちらのぐっこさんのHPに入り浸りなもので私の所の内容はお寒い限りではありますが、追って充実させていく所存です。 私からも、貴方のHPにお邪魔させて頂きたいと思います。
14: 2002/10/27(日) 22:31 japan[関東] > (2001/08/08(Wed) 21:56:23) >呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ… 『呉書』顧雍伝の冒頭に「朔方郡から戻ってきた蔡ヨウが呉に赴いたとき、顧雍に学問と琴を伝授した」という記述があります。 蔡ヨウが朔方郡への流刑に処せられたのが178年の7月。 いつ頃朝廷に戻ったのかは不明でしたが、董卓伝の記述を見ると、董卓が太尉になった189年に招聘されるまでの十年間、呉と太山を行ったり来たりしていたようです。 従って顧雍が蔡ヨウに師事した時期は179〜189年のどこか、というのはほぼ間違いないと思います。 ――そう考えると、顧雍の178年生まれという記述は非常に怪しい。 よほどの神童でもない限り、十歳(もしくはそれ以下)にして、あの蔡ヨウから名前の一字を与えられるほど高く評価されるなんてことはないでしょう。 もしそうなら、「その時顧雍は僅か六歳であった」とか誇らしげに書いてあるはず。 やはりぐっこ様や孫ぽこ様の仰るとおり、顧雍は十歳か、下手したらそれ以上サバをよんでいるのでしょうか…??
15: 2002/10/27(日) 22:31 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:03:57) >あの蔡ヨウから名前の一字を与えられる 註でいう、蔡ヨウ(雍に通じる)の雍の字をもらった、というヤツですね。 オマケに、蔡「雍」の賛「歎」で顧「雍」元「歎」って、それじゃ弟の顧徽の字の子「歎」はおこぼれかい!みたいな。 しかし、火を付けたのは他でもない私ではありますが、曲がりなりにも生没年がはっきり記述されているはずの顧雍がここまで疑われるのも可哀想な話ですね(^_^;)
16: 2002/10/27(日) 22:32 松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 01:46:13) やりました!顧雍問題は解決です!原因はズバリちくま正史の誤植!小南せんせ〜; 実はこの問題を調べるために、大学図書館から『三国志集解』を借りてきたのですが、それを見ると、なんと三国志本文の顧雍の享年が76歳に。盧弼の『集解』の「霊帝の建寧元年生まれ」という文を見るまでもなく、ぐっこさんの仰せられたとおりに顧雍の年齢が10歳アップです。いや、ちくま本の落とし穴でした(汗) この調子で、凌統(当て字)問題、黄蓋問題も解決するといいなあ…
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