下
【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
2: 2002/10/27(日) 22:27 玉川雄一[関東] > (2001/07/23(Mon) 20:47:22) 上の続きです。 生年を引き上げる(ムリがあるか?)とするならば、彼が若き日の留賛(183-255)に素質を見いだし、推挙したという話があります。 若き日の留賛は「黄巾の賊」の呉桓を斬った際に足に怪我をしましたが、その時の荒療治の様子を伝え聞いたリョウ統が彼と面談して高く評価したとのこと。 読めば読むほど謎が増えるばかり。史料のどこかに何らかの誤りがあるのでしょうが… さて、ゴッキーの皆さんのご意見やいかに?
3: 2002/10/27(日) 22:27 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/24(Tue) 00:03:17) おおお!? 凌(あて字)統ですか!? なるほど…?ええと、これは…明らかにパラドックスが発生してます。 つまり 凌操 …━━━━━━ 凌統 ━━━━━━━━━━━━━━━ 駱統 ━━━━━━━━━━ 留賛 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…… となっているのですが、 まず凌統より先に死んだはず(第一次北伐あたり)の駱統が、「凌統の死後(孔明の死後五年くらい)」にその兵を受け継いでいる。 しかもそれは夷陵の戦いの前である。 ついでに若かりし頃留賛が、5ツ6ツ「年下」の凌統に武の資質を見出されている。 う〜ん? ……考えるほど頭が…。あ、なんかこういうパズルありますよねえ、「この四人の中で誰かが嘘を付いてます」というパズル。 凌操と凌統を間違えている、にしては年がズレすぎですし…。 もし玉川様のご指摘通りに建安年間に死亡したとして、「享年49」を信じると、父・凌操が戦死したとき三〇代!生年は一七〇年前後で、孫策より五ツ上! 逆に生年(父の死の時十五)を信じると、享年30前後! うう〜ん、ゴッキー(?)の間では解決されている問題なのでしょうか!?
4: 2002/10/27(日) 22:27 松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:31:07) ええと、こちらのほうは『三国志集解』から。 陳景雲という人が、やはり駱統伝などに注目してこの記事をおかしいとし、四十七歳の四は二の誤りだとしています。ちなみにこの陳景雲さんは凌操の死を第二次江夏征伐の203年としているので、没年は217年、魯粛と同年没です。やはり215年を境に彼の記録がぷっつり切れてるのは、217年前後に死んだということなんでしょうね。
5: 2002/10/27(日) 22:28 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 09:43:05) こちらも! 47歳と27歳ったら、えらい違いではありますが… なるほど、正史を頼りにしすぎるのは禁物だということがよくわかりました。 しかし、このように矛盾点があれば疑いようもありますが、自然な形で載っていられると気付かずにいてしまうこともあるのでしょうね。
6: 2002/10/27(日) 22:28 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:55:31) わわ、松竹梅様、救援ありがとうございます〜! で、ええと凌統! なんと。説によって20年もの差が!? 註や集解は、正史の矛盾点や不足を他の資料などで補う書物ですから、あきらかに元テキストが誤っている場合などはそちらを優先してよいハズ。となると、凌統の死は217年、三十にならずして早世した若武者、ということにしてもよいのでしょうね〜! 正史を鵜呑みにするとこういう事態が起こるわけですね〜…怖い怖い…。
7: 2002/10/27(日) 22:29 玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月07日 (火) 00時52分08秒 【恐怖!呉国超時空領域再び】 超時空領域、またの名をディメンジョンスフィアー。(by長瀬室長) 凌(当て字)統の生没年に引き続き、またも呉に時空歪曲が発生しているようです。 呉粲について調べていたとき、顧邵に関する記述を読んでいたのですが… 顧邵は顧雍(178-243)の長子ですが、「若くして死んだ」そうです。27歳で豫章太守になり、郡にあること5年で在官のまま死去、ということは享年32歳。その後任の太守について、呂蒙は孫権から相談を受けています。はて? 呂蒙…彼の没年も、219年の末なんだか220年になってからなのかはっきりしませんが、仮に前者だとすると、顧雍とまったくの同年生まれと言うことになります。(呂蒙は享年42歳) その呂蒙より早く32歳で亡くなった顧邵…計算によると、彼の生年は一番遅く見積もっても188年。顧雍11歳の時の子供!? 一方目を転じますと、顧邵の子の顧譚、顧承兄弟は「二宮の変」に巻き込まれ、張休とともに交州へ流されています。 顧譚は「流されて2年目に42歳で交趾にて死去」し、顧承も「(交州に強制移住させられ)37歳で死去」しています。 弟はいまいちはっきりしませんが、兄の顧譚が245年かその数年後に死去しているのは確かなようです。すると彼の生まれは200年少し後。 これを基準に顧邵の生きた年代をある程度特定できそうです。 するとますます気になるのが顧邵の父、顧雍の歳。彼は子、孫と違い、唯一生没年がはっきしています。243年に66歳で死去、すなわち生年は178年。 死去した年は彼の伝以外に呉主伝にも書いてあるので確実でしょうが、生年が怪しいのでは…? どうも顧邵の生年がすでに180年代ぐらいまで遡りかねないようですし。
8: 2002/10/27(日) 22:29 玉川雄一[関東] > (2001/08/07(Tue) 00:52:41) ちなみに顧邵は「孫権のはからい」で孫策の娘と結婚していますが、顧譚、顧承の母が彼女かは怪しいです。といいますのも、父の孫策自身が175年生まれ、その娘が200年を過ぎた頃に子供を産めたものか… 実は、顧邵には(孫策の娘より先に?)陸氏という妻もいたようです。 整理しますと、 顧譚はどうやら200年少し後に生まれたらしい。 その父の顧邵は、おそらく孫策の死後にその娘と結婚した。 また、呂蒙より早く32歳で死去している。故に生年は遅くとも180年代と推測される。 しかし、顧邵の「父」の顧雍は178年生まれ。 よりによって、生没年がはっきりしているはずの顧雍まで怪しいというのも妙な話です。 やはりどこかのデータが間違っているのか? 私の計算違いというオチだったら恥ずかしいですが(*^_^*) 呉書って面白いですね。(そういうことか?)
9: 2002/10/27(日) 22:30 松竹梅[北海道] > (2001/08/07(Tue) 05:51:49) ここまであからさまにおかしいとなあ。もしかしたら『三国志集解』に何かヒントがあるかもしれないんで、今日大学にいって調べてみますね。あと、『呉書見聞』のほうに、救援を要請してみましょう。陳寿と韋昭、しっかりしてくれよ〜
10: 2002/10/27(日) 22:30 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:07:18) 下に埋もれてしまった凌統スレのようにタイムテーブル作ろうとして断念! このタイムパラドックスは何じゃ〜! いや、パラドックスというより生年の記述の不具合!私的には、生没年と享年が明らかにズレてるとき、享年のほうが正しい気がします(;^_^A 「このとき46才だった」とハッキリ言われると、妙に説得力が…。 しかし顧雍の場合だと没年から逆算して得られる生年と、息子の推定生年の差が近すぎる…。ああ、また「この中の誰か一人が嘘をついてます」状態〜!! やはり顧雍の生年をあと10年早めれば全てが上手くゆく換算なんですが…。 >松竹梅様 そうですね〜(;^_^A 確かに呉書見聞の御大方にもご出馬頂ければ、だいぶ楽になる、というか公論が出来上がって気が楽に〜。凌統スレも上げときますね〜。 それにしても当時に2ちゃんねるがあれば「先生、>>陳寿は厨房決定です!」とか罵られてたでしょうね〜。この種の矛盾ほどツッコまれるモノはないですし…。あ、そういえば四方山ではあの超超超面白いあずまんが三国志スレをお教え頂きありがとうございました〜(^^) これを機にあずまんが大王、読まれてみては?あんな良スレ見たことないです。
11: 2002/10/27(日) 22:30 玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 01:08:39) 今回はこんなカンジでしょうか。 呂蒙 ━━━━━━━━ 顧雍 ━━━━━━━━━━━━ 顧邵 …━━━━… 顧譚 ━━━━━━━━━━ 呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ…
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1035725179/l50