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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
21: 2002/10/27(日) 22:35 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:20:27) ありがとうございます。アテになるとも思えませんが、参考までに三國志8で見てみますと… 一年刻みのシナリオが思わぬ所で力を発揮(^_^) 注目の219年、この年は7月から開始されますが、黄蓋は登場しません。死亡扱いです。 孫ぽこさんが仰った通り、この時点ではまだ呂蒙の荊州攻略は開始されていません。というか、ゲームでは江陵に武将が多すぎ(^_^) このままでは、呉軍はうかつに手を出せません。 そうそう、ようやく(なぜか)えぢたー各種が入手できましたので、没年の設定を見てみますと、黄蓋は219年没ということになっています。 このゲームでは、「没年」と設定された前の年まで登場しているようです。 すなわち、諸葛亮の没年は235年に設定されていました。呂蒙は220年。孫策は201年。 面白いのは、220年1月に死去した曹操が、この年のシナリオは1月開始にもかかわらず登場しない(君主は曹丕)こと。 曹操の没年は「220年」になっていました…いや、それは確かに正しいといえば正しいのですが、ゲームシステム上は「221年」没で220年まで登場、にはなっていないのですね。 また、シナリオが存在しない235年以降に死去した人物については、実際の没年が設定されているようです。 話が大分それましたが、「三國志8」においては、黄蓋は218年ないしは219年に死亡したことになっているようです。ちなみに生年は154年。 凌統の生没年は189-237、何かと話題(笑)の顧雍は178-243。
22: 2002/10/27(日) 22:35 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:33) 黄蓋まで!?(;^_^A なるほど、黄蓋は武陵太守任命後に死亡とありますね〜。武陵が呉の領土になったのは関羽の死後だから、当然219年以降。が、黄蓋死後の兵を受け継いだ味好漢・孫皎は、呂蒙と同じく関帝に祟り殺されてます。これまた219年。219年というのは呉にとって転機の年ですね〜。荊州を得た代償として、名将・呂蒙、孫皎、そして黄蓋を喪ったことに…。 しかし、部長の仰るとおり、いかにもセセコマシイというかあわただしいシナリオになってしまいますよね〜。このままでわ。 この場合、年度ではなく状況を考えてみましょう。 本文では、「武陵の蛮夷叛乱し、城邑を攻守す。蓋を以て太守を領せしむ」 「蛮人が叛逆して立て籠もったので、黄蓋を太守として派遣した」という事です。……なんだか、関羽と命を削る攻防のすえ領有!…というカンジがしないような…? 妙にノンビリしている気もします。 ついでにいうと、この記述は「武鋒中郎将を拝す」のすぐ後に続きます。筑摩の正史ではこの就任を赤壁の記述とくっつけてますが(「赤壁の功績によって武鋒中郎将に任じられた」という具合に)、手持ちの和刻本では赤壁のあと註を挟み(トイレのあれ)、一行あけてから「拝武鋒中郎将。武陵蛮夷……」というカンジで続き、赤壁とは段落が異なります。 つまり黄蓋が武鋒中郎将に任じられてすぐに武陵太守になった、と解釈できなくもないです。
23: 2002/10/27(日) 22:35 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:48) となると、いつ孫権は武陵を領有したか、ということになりますね〜。最終的に孫呉が荊西を領有したのは関羽の敗死後ですが、その前に、いちど長沙や武陵あたりを暫定統治した時期はなかったでしょうか? 黄蓋が武陵太守ながら鎮圧した長沙の益陽県というのは、地図で見る限り洞庭湖の西南に位置し、かなり武陵に近く(手持ちの地図では衡陽郡)、湖を挟んですぐ北は周瑜の勢力圏である南郡です(ちなみに関羽軍が魯粛軍と対峙したのもこの益陽県です)。 ……以上、記述の章句と地理的環境から類推するに、黄蓋が「武陵太守」であった時期は、必ずしも「関羽の死後」でないかもしれません〜。周瑜が劉備に公安を貸す前、呂蒙の荊南攻撃が始まる前、魯粛との予備交渉がまとまる前…。 ああ、我ながら飛躍した理論だ〜。
24: 2002/10/27(日) 22:35 孫ぽこ[北海道] > (2001/08/10(Fri) 04:53:48) 私もそれを考えていました。つまり呉は関羽挟撃以前に武陵全部でなくても一部を支配していなかったかと? つまり魯粛の荊州東西分割以後です。確かショウ水を境に・・とあったと思うので、そのショウ水というのがどこを流れているのか、武陵の一部が呉側に来ていたのではないか?と。可能性はあるような気がします。ぜひ誰か調べて・・・お願い・・・あう・・・(泣)
25: 2002/10/27(日) 22:35 おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:40:21) わっかりました。孫ぽこどの! えっと、漢書地理志をつらつら調べていると、武陵郡の記述がありました。「高祖置く。戸数34177、人口185758、県18。」ふむふむ・・・・ 索県は現在の湖南省常徳市東北60里・・・ということは洞庭湖の西岸近くか・・・。孱陵は現在の湖北省公安の南・・・?公安と言えば、劉備が赤壁のあと周瑜が南郡に居座ったため長江の対岸に本拠地を定めた、あの公安ではないですか!ということは、武陵郡は長江と[シ元]水と洞庭湖に挟まれた地域のことなのか〜。なるほど〜。 と、言うことは長江と洞庭湖に挟まれた広大な湿地帯(雲夢沢)は武陵郡に含まれていた・・・。あれ?湘水がスゴイ遠いぞ〜。っていうか武陵郡と関係ないぞ〜。湘水の西側(益陽・湘潭など)はぜんぶ長沙郡だしな〜。 [まとめ]武陵は湘水と関係なし。しかし、黄蓋が鎮圧した武陵蛮夷とは雲夢沢もしくは洞庭湖の賊かもしれず、そこは武陵郡である。長江の南岸は武陵郡で、もしかするとそこら辺一帯は呉が領有していたのかも??黄蓋が赴任したのはそこら辺?? って全くまとまってませんね。三国迷でもない私が慣れない事をすると、こうなってしまう^^;ごめんなさい。これは明らかに間違ってる等ありましたら、教えてくださいまし〜。お願いします。 とりあえず出直してきますm(_ _)m
26: 2002/10/27(日) 22:36 おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:53:21) う〜ん。やっぱ↑のはオカシイ。公安は劉備領ですし。 え〜ん、だれかたすけて〜(泣)
27: 2002/10/27(日) 22:36 MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:54:24) 面白そうなのでROMらせて頂いていたのですが、お助け船をば。。 湘水は、おそらく「長沙のすぐ西を流れ、桂陽に至る長江の支流」ではないでしょうか? これはちくまの地図にもくっきりと記してあるので確認して頂けると思います。 現在、この支流の名称は「湘江」で、ここから単に『湘水=湘江』を連想しただけですが、 中国の地名は今でも結構残っているので、おそらくは間違い無いかと。 ちなみに、『湘水=湘江』ならば、長沙の西10kmくらいの所を流れているので、、、 湘水で領土を分けたなら、武陵郡は全然入らないでしょうねぇ。。(^^ゞ ありゃ!? 助け船になってない??(爆) あと、御承知かと思いますが、まだ領有していない地域の太守に任命される事もありますよね?(^^) この場合も、同じくである可能性は捨てきれないと思いますよ。 『張飛の司隷校尉任命』などは極端な例でしょう♪
28: 2002/10/27(日) 22:36 MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 10:00:54) あ、、、直前にカキコされちゃいましたね。。。あはははは(^^ゞ 連続カキコ申し訳ないですが、ちょっと補足〜〜♪ [シ元]水は洞庭湖から武陵を経て舞陽に至る河で、こちらも同じく現在の名称が[シ元]江です。 ちなみに中国語名はユワンコウ。でも日本語読みはシスイ、、、分からん!!(爆) 今、我ながら調べてみますと、極端な仮説を思い浮かんじゃいました。。。(^^ゞ 黄蓋が乱を平定したおかげで蜀から投降してきた巴・醴・由・誕などですが、 これを『巴=巴丘』、『醴=醴陵』とすると、、、黄蓋が赴任した地域は武陵ではなくなってしまいます(笑) そもそも、『巴』と言われると『益州の巴』を思い浮かべたくなりますが、 いくらなんでも、武陵の異民族の乱を平定しても『益州の巴』から投降してくるのはオカシイでしょう。。6(^_^; んで、南荊州の近くを見てみると、(どっかの注にもありましたが)『巴丘』は2つありまして、 洞庭湖の辺の『巴丘』と、豫章郡の南西に位置する『巴丘』、となります。 また、『醴』は武陵の近くには無く、長沙郡(長沙の東南)に『醴陵』という地名があります。 そして、『巴丘』と『醴陵』の間(つまり長沙と豫章の間)には標高1000mほどの丘陵地帯がそびえるんです。 (これらの地名は、全てちくまの地図に載っています) こういう所って、いかにも反体制派の民衆がいそうな気がしません?(笑) 豫章の周辺は常に呉の内患であったワケですし♪ つまり・・・ 陳寿の勘違いか、もしくは勘違いされ易い書き方をしてしまったか、 もしくは、、、またもや、ちくまの訳ミスでは?(笑) ちなみに、こうすると、黄蓋ジイがもうちょっと先に亡くなっていた可能性も出てきますよね?(^^)
29: 2002/10/27(日) 22:36 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/10(Fri) 23:08:14) ではこちらは後漢書郡国志から……「城12、戸数46,672、人口250,913」お、少し増えてますね(;^_^A それはそうと、まず「湘水」ですね〜。これはMOS様の仰るとおり洞底湖のど真ん中から真南に、武陵と長沙の間を流れています。この湘水を国境としたのならば、215年の魯粛の東西分割案では武陵はどう考えても劉備領です。 で、またまたMOS様がご指摘されたとおり、「蜀から投降した巴・醴・由・誕などの部族」というのは、別に蜀(益州)在住の諸部族というわけではなさそうですね。まあ劉璋の対荊州経営の一環として指嗾されていたのかもしれませんが…とにかく、この諸部族というのは、洞庭湖近辺に散らばっていたと見て間違いないと思います。 ……となると、やはり黄蓋は不穏な武陵を踏み固めるため太守として赴任し、ついでに長沙や洞庭湖(当時はたいしたサイズでなかったらしいですが)近辺の部族を平らげて回った、ということになりますね〜。 しかし、215年以降、武陵は劉備の土地。となると、209〜210年の、荊州南部が混沌としていた時期が怪しいかもしれません。あの当時、劉備が正式に領有していたのはあくまで公安などの「長江南岸(以南ではない)の土地」ですし…。実情は孫権領荊州に浮かぶ島国みたいなテリトリーだったかも。 そういえば、周瑜と魯粛が食邑として与えられた劉陽、漢昌、下儁、州陵の四城は、いずれも長沙郡内にありますね〜。 劉備軍が金旋や韓玄を追っ払ったとはいえ、孫権の勢力も荊南全域に張り出していたのでは〜。
30: 2002/10/27(日) 22:36 松竹梅[関東] > (2001/08/14(Tue) 00:31:26) 孫権は荊州と一緒に黄蓋も貸していた、とかはダメですね… マジな話、読んでいてこれは?と思ったのが、 一、黄蓋が武陵太守のはずなのに長沙郡益陽県の反乱を鎮圧している…ただし、この手の越権行為を孫堅もやってるから、その真似事かもしれない。 二、MOSさんの指摘どおり、巴・醴・由・誕のうち巴は巴丘(集解によれば、おそらく洞庭湖のほう)、醴は醴陵のことらしいです。でも、なぜにこの地方の異民族は劉備勢力に心服していたんだろうか。 さらに疑問を増やしてしまった…役に立てず、申し訳ないです。
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