【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
29:2002/10/27(日) 22:36AAS

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/10(Fri) 23:08:14)

ではこちらは後漢書郡国志から……「城12、戸数46,672、人口250,913」お、少し増えてますね(;^_^A 
それはそうと、まず「湘水」ですね〜。これはMOS様の仰るとおり洞底湖のど真ん中から真南に、武陵と長沙の間を流れています。この湘水を国境としたのならば、215年の魯粛の東西分割案では武陵はどう考えても劉備領です。

で、またまたMOS様がご指摘されたとおり、「蜀から投降した巴・醴・由・誕などの部族」というのは、別に蜀(益州)在住の諸部族というわけではなさそうですね。まあ劉璋の対荊州経営の一環として指嗾されていたのかもしれませんが…とにかく、この諸部族というのは、洞庭湖近辺に散らばっていたと見て間違いないと思います。
……となると、やはり黄蓋は不穏な武陵を踏み固めるため太守として赴任し、ついでに長沙や洞庭湖(当時はたいしたサイズでなかったらしいですが)近辺の部族を平らげて回った、ということになりますね〜。

しかし、215年以降、武陵は劉備の土地。となると、209〜210年の、荊州南部が混沌としていた時期が怪しいかもしれません。あの当時、劉備が正式に領有していたのはあくまで公安などの「長江南岸(以南ではない)の土地」ですし…。実情は孫権領荊州に浮かぶ島国みたいなテリトリーだったかも。
そういえば、周瑜と魯粛が食邑として与えられた劉陽、漢昌、下儁、州陵の四城は、いずれも長沙郡内にありますね〜。
劉備軍が金旋や韓玄を追っ払ったとはいえ、孫権の勢力も荊南全域に張り出していたのでは〜。
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