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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
30: 2002/10/27(日) 22:36 松竹梅[関東] > (2001/08/14(Tue) 00:31:26) 孫権は荊州と一緒に黄蓋も貸していた、とかはダメですね… マジな話、読んでいてこれは?と思ったのが、 一、黄蓋が武陵太守のはずなのに長沙郡益陽県の反乱を鎮圧している…ただし、この手の越権行為を孫堅もやってるから、その真似事かもしれない。 二、MOSさんの指摘どおり、巴・醴・由・誕のうち巴は巴丘(集解によれば、おそらく洞庭湖のほう)、醴は醴陵のことらしいです。でも、なぜにこの地方の異民族は劉備勢力に心服していたんだろうか。 さらに疑問を増やしてしまった…役に立てず、申し訳ないです。
31: 2002/10/27(日) 22:37 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/15(Wed) 00:32:27) う〜む。この異民族が謎ですよね〜。黄蓋が定説通り関羽敗亡後に武陵太守となったのならば、劉備の支援を受けていた叛乱なのでしょうが、異説「赤壁直後説」をとると、この異民族を支援していたのは劉璋勢力ということに。 武陵と言えば五谿蛮ですが、彼らの動向も気になります。黄蓋がいた間は大人しかったのでしょうか?
32: 2002/10/27(日) 22:37 MOS[外国] > (2001/08/17(Fri) 01:34:58) 全く意味は無いんですが、なんとなく見付けてしまったので。。 『呉の丞相』顧雍は丞相になる前、太常になっているのですが、 同時に醴陵侯に任じられているようです。 「封を進め」と書いてあるので、ある程度大きい県だったんでしょうね♪
33: 2002/10/27(日) 22:37 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/17(Fri) 23:42:11) 顧雍が醴陵侯ですか〜。となると県侯ですから、相当に高位ですね!さすが顧雍! ところで郡国志で見ると醴陵県には、仙人ゆかりの石室があるとかなんとか…。
34: 2002/11/02(土) 16:06 もす 【郭嘉の年齢詐称疑惑】 さて、若々しさをウリにされている郭嘉さんに疑惑登場。 以前、このカフェでも郭奕と荀爽の娘(荀采)の婚約話が昇っていましたが、 それと郭嘉伝での年齢を対比させると、パラドックスが起きてしまいます。(^^ゞ 『魏志郭嘉伝』の「38歳で亡くなった」、注の『傅子』での「40に満たなかった」という記述から、 彼の没年は38で間違いないと思います。 また、郭嘉の享年も207年か208年で疑いの余地は無いでしょう。 そして、『後漢紀』より荀爽が亡くなったのは初平元年(190年)だから、 郭嘉と荀采の婚約は、少なくとも190年以前です。 しかし、これらを総合すると、190年当時の郭嘉は20歳以下だった事になり、 19歳の荀采が嫁した郭嘉の息子は少なくとも10歳に満たなかったことになってしまうんです。 しかも、その郭奕も再婚とは・・・ 自分だけで考えても煮え切らないので、こちらにカキコさせて頂きます。よろしくぅ。<(_ _)>
35: 2002/11/02(土) 16:06 左平(仮名) 2002年08月14日水曜日 20時58分 例によって何の裏付けもありませんが…考えられるのは、以下の3パタ−ンですね。 1,郭嘉・郭奕・荀采の年齢・表記は全て正しい 10歳以上の姉さん女房…はるか後の話ですが、ありました。明の成化帝の貴妃・万氏は皇帝より19歳年上だったそうです(陳舜臣氏の『中国五千年』より)。 また、再婚という表記ですが…婚約段階で相手に死なれた為、新たに荀采を迎えようとした、そしてそれを「再婚」と書いた、という事も考えられるのではないでしょうか。この当時、女性の再婚はかなり難しかった様で、珍しかったという事もありますし。 2,郭嘉の年齢に誤り 顧雍の様に10歳も間違ってれば、初平元(190)年時点での郭奕の年齢は10代半ばとみる事も可能となり、矛盾なく考えられます。 とはいえ、一番可能性は低そうですね。 3,郭「奕」ではない 筆記の際に、他の字を「奕」と書き違えた、という事も考えられます。そして、「郭奕」と伝わった為に、「この人物は、時期的にみて郭嘉の子の郭奕であろう」という憶測がなされ、こういう様に書かれたという事もあり得るのではないでしょうか。 何の史料確認もしておりませんので、根拠はありませんが(1,ならパラドックスはなくなりますが…)。
36: 2002/11/02(土) 16:06 japan 2002年08月14日水曜日 22時50分 実は以前、とある方にこの問題に関してご教示頂いたことがありました。 結論から言うと「荀采と再婚した郭奕は、郭嘉の息子とは同姓同名の別人である可能性が高い」ということです。 中華書局版『後漢書』列女伝の注には「奕字は伯益、(壽)嘉の子なり」と記されていますが、『後漢書集解』によると「注の嘉は各本皆な壽に譌(なま)る。魏志に依りて改む」とあるそうです。 要するに、この郭奕君は郭壽(=寿)という人物の子であったにもかかわらず、左平様のカキコにある通り、 >「この人物は、時期的にみて郭嘉の子の郭奕であろう」 と判断されて、パパの名前を変えられてしまった模様です。(^^;) 上記のような次第で、取りあえず郭嘉の年齢は『魏志』の通りで間違いないかと。 ただ、息子の方の年齢も怪しいんですよね… 色々な所で耳にする「郭奕は郭嘉が13歳のときの子」という説は何処が出典なのでしょう?
37: 2002/11/02(土) 16:07 もす 2002年08月14日水曜日 23時29分 左平さん、japanさん、どうも、ありがとうございます。<(__)> >この郭奕君は郭壽(=寿)という人物の子であったにもかかわらず あ、私の版にもありますね。 ---------------------------↓------------------------- (亦)〔奕〕敬憚之 據汲本改。按:殿本訛「弈」。 (※Unicord謝々… (壽)〔嘉〕之子也 集解本「壽」作「嘉」,校補謂各本皆訛,依魏志改。今據改。 ---------------------------↑------------------------- ですよね。(^^) 残念ながら『後漢書集解』は持っていませんが… とはいえ、「郭壽説」は辛いような気がします… というのは、李賢がその後に「太子文学」と書いていますので、「誰の太子?」となってしまいますから。(^^ゞ | おそらく霊帝の太子では無いでしょう。 |とすると、諸王の太子か、曹丕か。袁譚や袁尚は"太子"とは呼ばないですよねぇ。。 >「郭奕は郭嘉が13歳のときの子」 やば、、初めて聞きました…(爆)
38: 2002/11/02(土) 16:07 ぐっこ 2002年08月15日木曜日 22時56分 ぐあ…Σ( ̄□ ̄;) ナニゲに凄い会話が! 後漢書も三國志も集解ホスイ…。 ええと、郭嘉の年齢詐称疑惑ですね(^_^;) 確か四志奮迅のほうでも取り上げられていたあの話題…。 手持ちの資料では手が出しようもないのですが、確かにあのあたりですと荀氏と郭氏の婚姻はフツーに行われていたでしょうから、郭嘉とは全く別の郭氏との縁談である可能性は十分にあります。 確か似たような話題が…ああ、鍾ヨウと郭援の関係でしたっけ(^_^;) とにかく、郭嘉の年齢は変わらないに一票。問題は、本物の郭嘉の子郭奕についてなんですが…13才の子!? とうことは…ええと…12才…?(数えで)(;´Д`) あのぅ、その説ってどのあたりから出てきたのでしょうか…?
39:★もす 2002/11/09(土) 19:35 ようやく、我輩の列伝でも郭嘉を書き終えまして、 纏まったのは以下の通りデス〜。 [記述通りに換算した生没年] 郭嘉 : 170年生、207年没 ["13歳説"に則った郭奕の生年] 郭奕 : 182年生 (曹丕 : 187年生) 肯定派 『三國志』の研究本の先駆けというべき『三國志集解』では、ストレートに姓名の更訂が為されている。郭奕を郭亦、郭嘉を郭壽。よって、『後漢書』の記述は范曄・李賢の勘違いとするべきである。 また、年齢については、人間は15歳未満でも子を為すことが十分可能なので、問題にならない。事実、郭奕は郭嘉が13歳の時に生まれた子である、とする説がある。 否定派 一.傅玄の記述は鵜呑みにできるほど、信頼性が高くない 二.范・李は、傅・陳の書を手にとって読む事が出来た 三.『三國志集解』の成立が明代、と大きく時代を経てからである 四.郭亦や郭壽という人物が他に見当たらない(それぞれ、宋と清にいたようだが本論には関係ない) 五.郭奕と荀采が結婚したのは190年当時、郭嘉が21歳になってしまう 六.「13歳説」を肯定すると、郭奕は八歳にして再婚予定だったことになる 六,一.同様に、荀采から見て、婚約した郭奕よりも郭嘉の方が年齢的に近い 七.太子文学であった郭奕は、曹丕よりも数歳は年上でなければならない 以上のような感じです。・・・ねぇ?(笑)
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