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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
38: 2002/11/02(土) 16:07 ぐっこ 2002年08月15日木曜日 22時56分 ぐあ…Σ( ̄□ ̄;) ナニゲに凄い会話が! 後漢書も三國志も集解ホスイ…。 ええと、郭嘉の年齢詐称疑惑ですね(^_^;) 確か四志奮迅のほうでも取り上げられていたあの話題…。 手持ちの資料では手が出しようもないのですが、確かにあのあたりですと荀氏と郭氏の婚姻はフツーに行われていたでしょうから、郭嘉とは全く別の郭氏との縁談である可能性は十分にあります。 確か似たような話題が…ああ、鍾ヨウと郭援の関係でしたっけ(^_^;) とにかく、郭嘉の年齢は変わらないに一票。問題は、本物の郭嘉の子郭奕についてなんですが…13才の子!? とうことは…ええと…12才…?(数えで)(;´Д`) あのぅ、その説ってどのあたりから出てきたのでしょうか…?
39:★もす 2002/11/09(土) 19:35 ようやく、我輩の列伝でも郭嘉を書き終えまして、 纏まったのは以下の通りデス〜。 [記述通りに換算した生没年] 郭嘉 : 170年生、207年没 ["13歳説"に則った郭奕の生年] 郭奕 : 182年生 (曹丕 : 187年生) 肯定派 『三國志』の研究本の先駆けというべき『三國志集解』では、ストレートに姓名の更訂が為されている。郭奕を郭亦、郭嘉を郭壽。よって、『後漢書』の記述は范曄・李賢の勘違いとするべきである。 また、年齢については、人間は15歳未満でも子を為すことが十分可能なので、問題にならない。事実、郭奕は郭嘉が13歳の時に生まれた子である、とする説がある。 否定派 一.傅玄の記述は鵜呑みにできるほど、信頼性が高くない 二.范・李は、傅・陳の書を手にとって読む事が出来た 三.『三國志集解』の成立が明代、と大きく時代を経てからである 四.郭亦や郭壽という人物が他に見当たらない(それぞれ、宋と清にいたようだが本論には関係ない) 五.郭奕と荀采が結婚したのは190年当時、郭嘉が21歳になってしまう 六.「13歳説」を肯定すると、郭奕は八歳にして再婚予定だったことになる 六,一.同様に、荀采から見て、婚約した郭奕よりも郭嘉の方が年齢的に近い 七.太子文学であった郭奕は、曹丕よりも数歳は年上でなければならない 以上のような感じです。・・・ねぇ?(笑)
40:★ぐっこ 2002/11/10(日) 16:34 うーむ… 今改めて熟考しておりましたが…(^_^;) 何にせよ残されているピースが限られてるから、二つに一つ なんですよね… わたしも、もす様と同じく、否定派のほうです。 この辺のトコロ、本場では結論出てないのだろうか… japan様が教えを乞われたという方は、専門家の方なのでしょうか…? いいなあ…
41:もす 2002/11/10(日) 18:51 [sage] 結局のところ、現状のままだと、どっちも肯定しきれないんですよね(笑) 突撃しちゃ失礼だろうし、メールも・・・う〜ん。。。。。。 [スマソな校正] 「八歳」 → 「九歳」(数え年デス…) 「結婚したのは190年当時」 → 「結婚した190年当時」
42:japan 2002/11/12(火) 23:45 [sage] とても明確に論点を纏めてくださり、ありがとうございます >もす様 それにしても、どちらが正解なのでしょう… 13歳で子どもを作ったり(?)、74歳で子どもを作ったりする連中がいるから ますます話がややこしくなるんですよね。 >ぐっこ様 >japan様が教えを乞われたという方は、専門家の方なのでしょうか…? どちらかというと専門家の卵にあたる方だと思います。 WEB上の知人なので、私もそれほど多くをお伺いしているのではないんですが…すみません。 ――で、自力でつらつらと考えてみたのですが ・「13歳説」の根拠は、確か「爵位を相続できる年齢から逆算して」ということだったと思います。 これもソースは失念してしまいました。申し訳ありません(涙) ・『郭嘉伝』以外で郭奕君が登場する唯一の列伝である『王昶伝』を読む限り、 郭奕と王昶は友人同士(二人とも太子文学に就任している為?)であるらしい。 肝心の王昶の生年は不明なのですが、 (1)同郷の王リョウ(172年生)と並んで名前を知られていた。 王リョウの方が年長なので、彼を兄と仰いでいた。 (2)没年は259年で、最終官位は司空 (3)嗣子・王渾の生年は223年(『晋書』王渾伝より) という三点から考えて、180年前後と見るのが穏当だと思います。 そうすると、王昶の知人兼同僚だったという郭奕も、180〜190年位に生まれたと 考えるのが妥当なのでは… 190年(あるいはそれ以前)に再婚――という記述だけに目を向ければ、 160年前後に生まれたと考える方が納まりが良いのですが、それだと 『王昶伝』の記述がおかしくなってくるんですよね。 まさにあちらを立てればこちらが立たず状態… 何だかますます訳が判らなくなってきました。申し訳ありません(@_@)
43:★ぐっこ 2002/11/13(水) 23:06 ぐわ…またしてもパラドクス(^_^;) うーん…確かに、どれかがウソをついてます、というだけでは 説明できない矛盾が… 再婚…まさか幼い頃から許嫁としていた娘が早世したため、次の 結婚相手を決めた、とかいうオチじゃ…。誰かいましたよね、そういう ケース。 私もお手上げだなあ…
44:もす 2002/11/16(土) 21:25 [sage] おゎ、そういえば、郭奕以外唯一の太子文学を調べるのを忘れていました。。 某所で指摘されていたのに、詳しく調べていませんでしたぁ。ありがとうございます〜 すっごい唐突に思いついたんですが・・・ 中国も親族を養子に入れることってありますよね・・・ 郭奕は郭嘉の弟だった!ってのはどうでしょう? 郭嘉が早逝したために跡を継いだ、つまり、系図的には『養子』である、と。。。。 やっぱりメチャですね。すいません・・・(;^_^A う〜ん、お手上げですねぇ。 ぐっこさん、japanさん、ホントにありがとうございました♪
45:★ぐっこ 2002/11/21(木) 21:42 [sage] いえいえ、こちらこそーm(__)m ていうか、私は何もしてない(^_^;) うーん、郭嘉と郭奕かー…。お手上げ…
46:★玉川雄一 2004/01/12(月) 10:18 そうそう、昨年もすさんの所で目にした衝撃の新事実(事実じゃあないかも)が。 念のためこちらでも披露しておきましょうか。 もすさんのサイト『四史奮迅』に掲載されている「四史人物列伝」において、 “甘寧215年没説”が提唱されておりました。 なんでも、『建康実録』なる地方志には「甘寧が215年の12月に死去した」とあるそうで、 もすさんも直接は確認されたそうではないですが、なかなか興味深い記事だと思いません? 確かに凌統の時と同じく甘寧もまた、 建安年間末期以降の記述に明確な年代特定がしづらいんですよね。 この辺りは「四史人物列伝」でもすさんも分析してらっしゃいますが。 果たして『建康実録』が史料として信憑性があるものなのか、 もしかしたら他にも面白い記事がありはしないか、などと興味は膨らみます。
47:もす 2004/01/13(火) 03:37 えーっと、それらしく言ってしまうと、 私のネタじゃなくって"松"の付く方から頂いたネタだったりします(笑) その方に質問などが飛び火しないようコラムでは隠していますが、ここなら大丈夫っすよね。 かくいう私が手に入れればいいんですが、最近はやる気が全く出なくて…(;^_^A ちなみに、建康実録の件は某所でも「怪しいよね」って話が出てました。
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