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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
8: 2002/10/27(日) 22:29 玉川雄一[関東] > (2001/08/07(Tue) 00:52:41) ちなみに顧邵は「孫権のはからい」で孫策の娘と結婚していますが、顧譚、顧承の母が彼女かは怪しいです。といいますのも、父の孫策自身が175年生まれ、その娘が200年を過ぎた頃に子供を産めたものか… 実は、顧邵には(孫策の娘より先に?)陸氏という妻もいたようです。 整理しますと、 顧譚はどうやら200年少し後に生まれたらしい。 その父の顧邵は、おそらく孫策の死後にその娘と結婚した。 また、呂蒙より早く32歳で死去している。故に生年は遅くとも180年代と推測される。 しかし、顧邵の「父」の顧雍は178年生まれ。 よりによって、生没年がはっきりしているはずの顧雍まで怪しいというのも妙な話です。 やはりどこかのデータが間違っているのか? 私の計算違いというオチだったら恥ずかしいですが(*^_^*) 呉書って面白いですね。(そういうことか?)
9: 2002/10/27(日) 22:30 松竹梅[北海道] > (2001/08/07(Tue) 05:51:49) ここまであからさまにおかしいとなあ。もしかしたら『三国志集解』に何かヒントがあるかもしれないんで、今日大学にいって調べてみますね。あと、『呉書見聞』のほうに、救援を要請してみましょう。陳寿と韋昭、しっかりしてくれよ〜
10: 2002/10/27(日) 22:30 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:07:18) 下に埋もれてしまった凌統スレのようにタイムテーブル作ろうとして断念! このタイムパラドックスは何じゃ〜! いや、パラドックスというより生年の記述の不具合!私的には、生没年と享年が明らかにズレてるとき、享年のほうが正しい気がします(;^_^A 「このとき46才だった」とハッキリ言われると、妙に説得力が…。 しかし顧雍の場合だと没年から逆算して得られる生年と、息子の推定生年の差が近すぎる…。ああ、また「この中の誰か一人が嘘をついてます」状態〜!! やはり顧雍の生年をあと10年早めれば全てが上手くゆく換算なんですが…。 >松竹梅様 そうですね〜(;^_^A 確かに呉書見聞の御大方にもご出馬頂ければ、だいぶ楽になる、というか公論が出来上がって気が楽に〜。凌統スレも上げときますね〜。 それにしても当時に2ちゃんねるがあれば「先生、>>陳寿は厨房決定です!」とか罵られてたでしょうね〜。この種の矛盾ほどツッコまれるモノはないですし…。あ、そういえば四方山ではあの超超超面白いあずまんが三国志スレをお教え頂きありがとうございました〜(^^) これを機にあずまんが大王、読まれてみては?あんな良スレ見たことないです。
11: 2002/10/27(日) 22:30 玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 01:08:39) 今回はこんなカンジでしょうか。 呂蒙 ━━━━━━━━ 顧雍 ━━━━━━━━━━━━ 顧邵 …━━━━… 顧譚 ━━━━━━━━━━ 呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ…
12: 2002/10/27(日) 22:31 孫ぽこ[] > (2001/08/08(Wed) 19:36:05) はい。その役に立たない大御所がやってきました(;^_^A えー、この件についてですが、以前黄蓋の没年の整理をした時にも同じ事が起きました。どうやら呉書では【○○年にこういう役職についた】という記述の場合、あまり信用できないという気がします。が、この場合はたぶん顧雍の生年の方が怪しいですね。まさか顧雍さん年齢詐称していたのか・・・・・ それと玉川雄一さん。最近よくお名前を拝見させていただいてます。すごい博識ですねー。今度ホームページにも遊びに行かせてもらいますね。
13: 2002/10/27(日) 22:31 玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 20:32:27) いえいえ、私の情報源って、結局正史(筑摩の三巻本)がほぼ全てで、後は斜め読み(ですらない)した晋書程度ですから、あまり偉そうなことは言えないのですが… ホームページでは大歓迎…はもちろんですが、こと三国志ネタにつきましては、最近こちらのぐっこさんのHPに入り浸りなもので私の所の内容はお寒い限りではありますが、追って充実させていく所存です。 私からも、貴方のHPにお邪魔させて頂きたいと思います。
14: 2002/10/27(日) 22:31 japan[関東] > (2001/08/08(Wed) 21:56:23) >呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ… 『呉書』顧雍伝の冒頭に「朔方郡から戻ってきた蔡ヨウが呉に赴いたとき、顧雍に学問と琴を伝授した」という記述があります。 蔡ヨウが朔方郡への流刑に処せられたのが178年の7月。 いつ頃朝廷に戻ったのかは不明でしたが、董卓伝の記述を見ると、董卓が太尉になった189年に招聘されるまでの十年間、呉と太山を行ったり来たりしていたようです。 従って顧雍が蔡ヨウに師事した時期は179〜189年のどこか、というのはほぼ間違いないと思います。 ――そう考えると、顧雍の178年生まれという記述は非常に怪しい。 よほどの神童でもない限り、十歳(もしくはそれ以下)にして、あの蔡ヨウから名前の一字を与えられるほど高く評価されるなんてことはないでしょう。 もしそうなら、「その時顧雍は僅か六歳であった」とか誇らしげに書いてあるはず。 やはりぐっこ様や孫ぽこ様の仰るとおり、顧雍は十歳か、下手したらそれ以上サバをよんでいるのでしょうか…??
15: 2002/10/27(日) 22:31 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:03:57) >あの蔡ヨウから名前の一字を与えられる 註でいう、蔡ヨウ(雍に通じる)の雍の字をもらった、というヤツですね。 オマケに、蔡「雍」の賛「歎」で顧「雍」元「歎」って、それじゃ弟の顧徽の字の子「歎」はおこぼれかい!みたいな。 しかし、火を付けたのは他でもない私ではありますが、曲がりなりにも生没年がはっきり記述されているはずの顧雍がここまで疑われるのも可哀想な話ですね(^_^;)
16: 2002/10/27(日) 22:32 松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 01:46:13) やりました!顧雍問題は解決です!原因はズバリちくま正史の誤植!小南せんせ〜; 実はこの問題を調べるために、大学図書館から『三国志集解』を借りてきたのですが、それを見ると、なんと三国志本文の顧雍の享年が76歳に。盧弼の『集解』の「霊帝の建寧元年生まれ」という文を見るまでもなく、ぐっこさんの仰せられたとおりに顧雍の年齢が10歳アップです。いや、ちくま本の落とし穴でした(汗) この調子で、凌統(当て字)問題、黄蓋問題も解決するといいなあ…
17: 2002/10/27(日) 22:32 松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:04:12) ちなみに、『集解』のほうには吾粲問題について書いてあり、どうやら吾粲=呉粲で間違いないようです。でもどこから官職の差が出てくるのかは謎でありますが。
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