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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
13: 2002/10/27(日) 22:31 玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 20:32:27) いえいえ、私の情報源って、結局正史(筑摩の三巻本)がほぼ全てで、後は斜め読み(ですらない)した晋書程度ですから、あまり偉そうなことは言えないのですが… ホームページでは大歓迎…はもちろんですが、こと三国志ネタにつきましては、最近こちらのぐっこさんのHPに入り浸りなもので私の所の内容はお寒い限りではありますが、追って充実させていく所存です。 私からも、貴方のHPにお邪魔させて頂きたいと思います。
14: 2002/10/27(日) 22:31 japan[関東] > (2001/08/08(Wed) 21:56:23) >呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ… 『呉書』顧雍伝の冒頭に「朔方郡から戻ってきた蔡ヨウが呉に赴いたとき、顧雍に学問と琴を伝授した」という記述があります。 蔡ヨウが朔方郡への流刑に処せられたのが178年の7月。 いつ頃朝廷に戻ったのかは不明でしたが、董卓伝の記述を見ると、董卓が太尉になった189年に招聘されるまでの十年間、呉と太山を行ったり来たりしていたようです。 従って顧雍が蔡ヨウに師事した時期は179〜189年のどこか、というのはほぼ間違いないと思います。 ――そう考えると、顧雍の178年生まれという記述は非常に怪しい。 よほどの神童でもない限り、十歳(もしくはそれ以下)にして、あの蔡ヨウから名前の一字を与えられるほど高く評価されるなんてことはないでしょう。 もしそうなら、「その時顧雍は僅か六歳であった」とか誇らしげに書いてあるはず。 やはりぐっこ様や孫ぽこ様の仰るとおり、顧雍は十歳か、下手したらそれ以上サバをよんでいるのでしょうか…??
15: 2002/10/27(日) 22:31 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:03:57) >あの蔡ヨウから名前の一字を与えられる 註でいう、蔡ヨウ(雍に通じる)の雍の字をもらった、というヤツですね。 オマケに、蔡「雍」の賛「歎」で顧「雍」元「歎」って、それじゃ弟の顧徽の字の子「歎」はおこぼれかい!みたいな。 しかし、火を付けたのは他でもない私ではありますが、曲がりなりにも生没年がはっきり記述されているはずの顧雍がここまで疑われるのも可哀想な話ですね(^_^;)
16: 2002/10/27(日) 22:32 松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 01:46:13) やりました!顧雍問題は解決です!原因はズバリちくま正史の誤植!小南せんせ〜; 実はこの問題を調べるために、大学図書館から『三国志集解』を借りてきたのですが、それを見ると、なんと三国志本文の顧雍の享年が76歳に。盧弼の『集解』の「霊帝の建寧元年生まれ」という文を見るまでもなく、ぐっこさんの仰せられたとおりに顧雍の年齢が10歳アップです。いや、ちくま本の落とし穴でした(汗) この調子で、凌統(当て字)問題、黄蓋問題も解決するといいなあ…
17: 2002/10/27(日) 22:32 松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:04:12) ちなみに、『集解』のほうには吾粲問題について書いてあり、どうやら吾粲=呉粲で間違いないようです。でもどこから官職の差が出てくるのかは謎でありますが。
18: 2002/10/27(日) 22:32 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 09:38:37) なんと!ありがとうございます…(T_T) 調べてみれば分かるもので、というか、私もまだまだ知らないことがたくさんあるようです。 ところで、「ちくまの誤訳」だとすると、原文はどうなのでしょう? 大学の図書館に中華書房のヤツがありましたので、今度機会があったら見てみようかしら。 ところで、『三國志集解』とは度々耳にするのですが、どのような本なのでしょうか。 私も以前一度読んでみようと思ったこともあったのですが…手に入るようなものでしたっけ?
19: 2002/10/27(日) 22:33 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:04) 「三國志集解」!欲しい!「華陽国志」と並んで! あ、まえ大学図書館で「さんごくししゅうかい」ありますか!――って言って失笑を買いました。「さんごくししっかい」が正解らしいですね(;^_^A で、顧雍問題にもとうとう解決が〜! ハイ、私も友人に貸してた三國志書籍全部を引き上げて調べましたが、徳間の正史全人物名辞典、潮出の演義大辞典ともに、顧雍の生年を168年としていました。まさに筑摩の落とし穴〜!案外この種の誤植・誤訳が他にもあるかも〜っ!? それと吾粲=呉粲もほぼ間違いないですか〜ッ!? うわあ、集解欲しい〜!
20: 2002/10/27(日) 22:34 孫ぽこ[北海道] 投稿日:2001年08月08日 (水) 22時15分46秒 それでは、没年・生年詐称疑惑第三弾を^^;。今回の被告は呉の大物・黄蓋ジイその人です。 黄蓋は赤壁後は武陵や長沙の異民族統治を中心にやっていたとあり,そこから考えると,武陵を呉が領有したのは,呂蒙による関羽挟撃以降のことなので,219年の段階では生きています。その後,武陵→長沙の反乱を鎮圧した後,死亡しているので219年から229年の間に死んだと言うことになりますね。 ですから、個人的にはもし黄蓋が夷陵の戦いの頃に生きていたなら,おそらく戦線に参加したはずだと思うので,たぶん219年から222年の間に死去したと思っていました。 と・こ・ろ・が・・です。 孫皎伝に「黄蓋と兄の孫ユとが死去すると、彼らの配下の軍をも併せて孫皎が指揮を執った。」という記述があります。 ここを読んであれれれ??と違和感を感じたのですよ。孫ユが死亡したのが215年であり、関羽挟撃の前で武陵はまだ呉領ではありません。また孫皎が死亡したのは219年です。 となると・・・全ての記述が正しいとすると下記のようになります。 黄蓋は呂蒙の関羽挟撃のあった219年、十月まで生きていた。でその直後に武陵の太守になって数日のうちに武陵の乱を平定してその数日後には長沙の反乱の平定をして偏将軍に任じられた。所がその後すぐ死去。そこで孫コウが軍を引き継いだが、その孫コウも219年のうちに死んだ・・・・ なんと黄蓋も孫コウも没年どころか、死んだ月まで特定できる事になります^^;。こんなアホな事はない^^;。 という事でこれも誰かが嘘をついています^^;。さて犯人は誰だ?? >三国志集解 お、おでもほしいぃぃー、さんごくししっしっかい!!(山田たろー風) できれば和訳しくくでー、誰がー(爆)
21: 2002/10/27(日) 22:35 玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:20:27) ありがとうございます。アテになるとも思えませんが、参考までに三國志8で見てみますと… 一年刻みのシナリオが思わぬ所で力を発揮(^_^) 注目の219年、この年は7月から開始されますが、黄蓋は登場しません。死亡扱いです。 孫ぽこさんが仰った通り、この時点ではまだ呂蒙の荊州攻略は開始されていません。というか、ゲームでは江陵に武将が多すぎ(^_^) このままでは、呉軍はうかつに手を出せません。 そうそう、ようやく(なぜか)えぢたー各種が入手できましたので、没年の設定を見てみますと、黄蓋は219年没ということになっています。 このゲームでは、「没年」と設定された前の年まで登場しているようです。 すなわち、諸葛亮の没年は235年に設定されていました。呂蒙は220年。孫策は201年。 面白いのは、220年1月に死去した曹操が、この年のシナリオは1月開始にもかかわらず登場しない(君主は曹丕)こと。 曹操の没年は「220年」になっていました…いや、それは確かに正しいといえば正しいのですが、ゲームシステム上は「221年」没で220年まで登場、にはなっていないのですね。 また、シナリオが存在しない235年以降に死去した人物については、実際の没年が設定されているようです。 話が大分それましたが、「三國志8」においては、黄蓋は218年ないしは219年に死亡したことになっているようです。ちなみに生年は154年。 凌統の生没年は189-237、何かと話題(笑)の顧雍は178-243。
22: 2002/10/27(日) 22:35 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:33) 黄蓋まで!?(;^_^A なるほど、黄蓋は武陵太守任命後に死亡とありますね〜。武陵が呉の領土になったのは関羽の死後だから、当然219年以降。が、黄蓋死後の兵を受け継いだ味好漢・孫皎は、呂蒙と同じく関帝に祟り殺されてます。これまた219年。219年というのは呉にとって転機の年ですね〜。荊州を得た代償として、名将・呂蒙、孫皎、そして黄蓋を喪ったことに…。 しかし、部長の仰るとおり、いかにもセセコマシイというかあわただしいシナリオになってしまいますよね〜。このままでわ。 この場合、年度ではなく状況を考えてみましょう。 本文では、「武陵の蛮夷叛乱し、城邑を攻守す。蓋を以て太守を領せしむ」 「蛮人が叛逆して立て籠もったので、黄蓋を太守として派遣した」という事です。……なんだか、関羽と命を削る攻防のすえ領有!…というカンジがしないような…? 妙にノンビリしている気もします。 ついでにいうと、この記述は「武鋒中郎将を拝す」のすぐ後に続きます。筑摩の正史ではこの就任を赤壁の記述とくっつけてますが(「赤壁の功績によって武鋒中郎将に任じられた」という具合に)、手持ちの和刻本では赤壁のあと註を挟み(トイレのあれ)、一行あけてから「拝武鋒中郎将。武陵蛮夷……」というカンジで続き、赤壁とは段落が異なります。 つまり黄蓋が武鋒中郎将に任じられてすぐに武陵太守になった、と解釈できなくもないです。
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