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【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
26: 2002/10/27(日) 22:36 おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:53:21) う〜ん。やっぱ↑のはオカシイ。公安は劉備領ですし。 え〜ん、だれかたすけて〜(泣)
27: 2002/10/27(日) 22:36 MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:54:24) 面白そうなのでROMらせて頂いていたのですが、お助け船をば。。 湘水は、おそらく「長沙のすぐ西を流れ、桂陽に至る長江の支流」ではないでしょうか? これはちくまの地図にもくっきりと記してあるので確認して頂けると思います。 現在、この支流の名称は「湘江」で、ここから単に『湘水=湘江』を連想しただけですが、 中国の地名は今でも結構残っているので、おそらくは間違い無いかと。 ちなみに、『湘水=湘江』ならば、長沙の西10kmくらいの所を流れているので、、、 湘水で領土を分けたなら、武陵郡は全然入らないでしょうねぇ。。(^^ゞ ありゃ!? 助け船になってない??(爆) あと、御承知かと思いますが、まだ領有していない地域の太守に任命される事もありますよね?(^^) この場合も、同じくである可能性は捨てきれないと思いますよ。 『張飛の司隷校尉任命』などは極端な例でしょう♪
28: 2002/10/27(日) 22:36 MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 10:00:54) あ、、、直前にカキコされちゃいましたね。。。あはははは(^^ゞ 連続カキコ申し訳ないですが、ちょっと補足〜〜♪ [シ元]水は洞庭湖から武陵を経て舞陽に至る河で、こちらも同じく現在の名称が[シ元]江です。 ちなみに中国語名はユワンコウ。でも日本語読みはシスイ、、、分からん!!(爆) 今、我ながら調べてみますと、極端な仮説を思い浮かんじゃいました。。。(^^ゞ 黄蓋が乱を平定したおかげで蜀から投降してきた巴・醴・由・誕などですが、 これを『巴=巴丘』、『醴=醴陵』とすると、、、黄蓋が赴任した地域は武陵ではなくなってしまいます(笑) そもそも、『巴』と言われると『益州の巴』を思い浮かべたくなりますが、 いくらなんでも、武陵の異民族の乱を平定しても『益州の巴』から投降してくるのはオカシイでしょう。。6(^_^; んで、南荊州の近くを見てみると、(どっかの注にもありましたが)『巴丘』は2つありまして、 洞庭湖の辺の『巴丘』と、豫章郡の南西に位置する『巴丘』、となります。 また、『醴』は武陵の近くには無く、長沙郡(長沙の東南)に『醴陵』という地名があります。 そして、『巴丘』と『醴陵』の間(つまり長沙と豫章の間)には標高1000mほどの丘陵地帯がそびえるんです。 (これらの地名は、全てちくまの地図に載っています) こういう所って、いかにも反体制派の民衆がいそうな気がしません?(笑) 豫章の周辺は常に呉の内患であったワケですし♪ つまり・・・ 陳寿の勘違いか、もしくは勘違いされ易い書き方をしてしまったか、 もしくは、、、またもや、ちくまの訳ミスでは?(笑) ちなみに、こうすると、黄蓋ジイがもうちょっと先に亡くなっていた可能性も出てきますよね?(^^)
29: 2002/10/27(日) 22:36 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/10(Fri) 23:08:14) ではこちらは後漢書郡国志から……「城12、戸数46,672、人口250,913」お、少し増えてますね(;^_^A それはそうと、まず「湘水」ですね〜。これはMOS様の仰るとおり洞底湖のど真ん中から真南に、武陵と長沙の間を流れています。この湘水を国境としたのならば、215年の魯粛の東西分割案では武陵はどう考えても劉備領です。 で、またまたMOS様がご指摘されたとおり、「蜀から投降した巴・醴・由・誕などの部族」というのは、別に蜀(益州)在住の諸部族というわけではなさそうですね。まあ劉璋の対荊州経営の一環として指嗾されていたのかもしれませんが…とにかく、この諸部族というのは、洞庭湖近辺に散らばっていたと見て間違いないと思います。 ……となると、やはり黄蓋は不穏な武陵を踏み固めるため太守として赴任し、ついでに長沙や洞庭湖(当時はたいしたサイズでなかったらしいですが)近辺の部族を平らげて回った、ということになりますね〜。 しかし、215年以降、武陵は劉備の土地。となると、209〜210年の、荊州南部が混沌としていた時期が怪しいかもしれません。あの当時、劉備が正式に領有していたのはあくまで公安などの「長江南岸(以南ではない)の土地」ですし…。実情は孫権領荊州に浮かぶ島国みたいなテリトリーだったかも。 そういえば、周瑜と魯粛が食邑として与えられた劉陽、漢昌、下儁、州陵の四城は、いずれも長沙郡内にありますね〜。 劉備軍が金旋や韓玄を追っ払ったとはいえ、孫権の勢力も荊南全域に張り出していたのでは〜。
30: 2002/10/27(日) 22:36 松竹梅[関東] > (2001/08/14(Tue) 00:31:26) 孫権は荊州と一緒に黄蓋も貸していた、とかはダメですね… マジな話、読んでいてこれは?と思ったのが、 一、黄蓋が武陵太守のはずなのに長沙郡益陽県の反乱を鎮圧している…ただし、この手の越権行為を孫堅もやってるから、その真似事かもしれない。 二、MOSさんの指摘どおり、巴・醴・由・誕のうち巴は巴丘(集解によれば、おそらく洞庭湖のほう)、醴は醴陵のことらしいです。でも、なぜにこの地方の異民族は劉備勢力に心服していたんだろうか。 さらに疑問を増やしてしまった…役に立てず、申し訳ないです。
31: 2002/10/27(日) 22:37 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/15(Wed) 00:32:27) う〜む。この異民族が謎ですよね〜。黄蓋が定説通り関羽敗亡後に武陵太守となったのならば、劉備の支援を受けていた叛乱なのでしょうが、異説「赤壁直後説」をとると、この異民族を支援していたのは劉璋勢力ということに。 武陵と言えば五谿蛮ですが、彼らの動向も気になります。黄蓋がいた間は大人しかったのでしょうか?
32: 2002/10/27(日) 22:37 MOS[外国] > (2001/08/17(Fri) 01:34:58) 全く意味は無いんですが、なんとなく見付けてしまったので。。 『呉の丞相』顧雍は丞相になる前、太常になっているのですが、 同時に醴陵侯に任じられているようです。 「封を進め」と書いてあるので、ある程度大きい県だったんでしょうね♪
33: 2002/10/27(日) 22:37 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/17(Fri) 23:42:11) 顧雍が醴陵侯ですか〜。となると県侯ですから、相当に高位ですね!さすが顧雍! ところで郡国志で見ると醴陵県には、仙人ゆかりの石室があるとかなんとか…。
34: 2002/11/02(土) 16:06 もす 【郭嘉の年齢詐称疑惑】 さて、若々しさをウリにされている郭嘉さんに疑惑登場。 以前、このカフェでも郭奕と荀爽の娘(荀采)の婚約話が昇っていましたが、 それと郭嘉伝での年齢を対比させると、パラドックスが起きてしまいます。(^^ゞ 『魏志郭嘉伝』の「38歳で亡くなった」、注の『傅子』での「40に満たなかった」という記述から、 彼の没年は38で間違いないと思います。 また、郭嘉の享年も207年か208年で疑いの余地は無いでしょう。 そして、『後漢紀』より荀爽が亡くなったのは初平元年(190年)だから、 郭嘉と荀采の婚約は、少なくとも190年以前です。 しかし、これらを総合すると、190年当時の郭嘉は20歳以下だった事になり、 19歳の荀采が嫁した郭嘉の息子は少なくとも10歳に満たなかったことになってしまうんです。 しかも、その郭奕も再婚とは・・・ 自分だけで考えても煮え切らないので、こちらにカキコさせて頂きます。よろしくぅ。<(_ _)>
35: 2002/11/02(土) 16:06 左平(仮名) 2002年08月14日水曜日 20時58分 例によって何の裏付けもありませんが…考えられるのは、以下の3パタ−ンですね。 1,郭嘉・郭奕・荀采の年齢・表記は全て正しい 10歳以上の姉さん女房…はるか後の話ですが、ありました。明の成化帝の貴妃・万氏は皇帝より19歳年上だったそうです(陳舜臣氏の『中国五千年』より)。 また、再婚という表記ですが…婚約段階で相手に死なれた為、新たに荀采を迎えようとした、そしてそれを「再婚」と書いた、という事も考えられるのではないでしょうか。この当時、女性の再婚はかなり難しかった様で、珍しかったという事もありますし。 2,郭嘉の年齢に誤り 顧雍の様に10歳も間違ってれば、初平元(190)年時点での郭奕の年齢は10代半ばとみる事も可能となり、矛盾なく考えられます。 とはいえ、一番可能性は低そうですね。 3,郭「奕」ではない 筆記の際に、他の字を「奕」と書き違えた、という事も考えられます。そして、「郭奕」と伝わった為に、「この人物は、時期的にみて郭嘉の子の郭奕であろう」という憶測がなされ、こういう様に書かれたという事もあり得るのではないでしょうか。 何の史料確認もしておりませんので、根拠はありませんが(1,ならパラドックスはなくなりますが…)。
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