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【正史を】 ミス?誤植?教えてください〜【匡せ】
1: 2002/10/27(日) 23:34 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年09月01日 (土) 21時30分28秒 ところで、近頃おもいまするに、三国志資料(正史含む)って、間違いは無いモノなのでしょうか? 最近では一番お茶目な例として顧雍の享年誤植事件。陳寿本人による凌統没年計算ミス、黄蓋の任官年度不明瞭記述。――全く類が違いますが、たとえば馬謖が「破竹の勢い」と平気で口にするBS演義。 比較的無警戒に史料を真に受ける癖のある私ですが、なんだか最近怖くなってきました(;^_^A そういえば以前、松竹梅様が「図解雑学三國志」のさりげないミスに言及されていましたが、私は全く気づきませんでした。 もし当該箇所を何かの機会に引用したりして、「ぐっこさんソレ間違ってます」とか言われたりしたら…。 はうっ! 皆様、もし身の回りでこの類のミス・誤植・誤訳などを見かけましたら、いつでもかまいませんのでこのスレッドにご教授いただけないでしょうか!? 批判・批評ではなく、あくまで指摘スレです。
2: 2002/10/27(日) 23:34 japan[関東] > (2001/09/02(Sun) 01:29:20) 実はこういうスレ立てたかったんです。 どうしても疑問なことがあって…是非博識な皆様に伺ってみたいと思っていました。 ということで、長くなりますが、二点ほど質問させてください。 (1)ちくま学芸文庫版『正史三国志3』の500ページ、巻二十二衛シン(至+秦)伝の本文に関する疑問。 文帝が即位すると、東海王の曹霖が寵愛を受けた。帝は衛シンに訊ねた『平原侯(=曹植)はどうじゃ。』 衛シンは(曹植の)徳性のりっぱさをたたえながら、最後まで(東海王については)触れなかった。 この箇所、何だか変じゃないですか? どうして文帝の子である曹霖が、叔父の曹植と比較されるのか。 多分、×平原侯(=曹植)→○平原王(=曹叡)だと思うのですが… 曹丕が曹叡・曹霖のどちらを太子に立てるか迷って、衛シンに相談した――という方がありそうな話だと思います。 上記の文の直前には「曹丕・曹植の後継者争いのとき、曹植派から勧誘を受けた衛シンが大儀をたてに拒否した」という話が載っています。 常に長子相続の大原則を守る衛シン――という法則からすれば、やはり平原侯ではなく平原王が正しいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
3: 2002/10/27(日) 23:35 japan[関東] > (2001/09/02(Sun) 01:44:20) 予想以上に長くなってしまったので、二つに分けました。 (2)ちくま学芸文庫版『正史三国志4』の285ページ、巻二十八昜伝裴注の『世語』に関する疑問。(以下は要約です) 宴席で尚書の鍾ヨウが州泰をからかって言った。「君は平民から抜擢されて三十六日で太守になった。乞食が小さな車に乗って、なんと早く走ることか。」 州泰はこう言い返した。「君は名家の子であり、若いときからずっと官職についていた。猿が土の牛にまたがって、またなんと歩みの遅いことか。」 この州泰という人物は261年に亡くなっています。 よって、151年生まれの鍾ヨウとはおそらく50歳くらいは歳の差があるはず。 とてもこんな台詞を鍾ヨウに向かって吐ける訳がありません。 ということで、これは鍾ヨウではなく、その息子の鍾イク又は鍾会だと思うのですが… 細かいことを長々とすみません。 でも、以前から気になっていたもので…宜しくお願いします。
4: 2002/10/27(日) 23:35 松竹梅[関東] > (2001/09/02(Sun) 02:30:22) 結果から言うと、両方とも「テキスト的には」正しいです。 ただし、(2)のほうは、『三国志集解』の方にいろんな意見が述べられております。それを読むと、どうも実際は鍾会が正しそうな気がします。ただ、原典が『世語』なので、どっちにしても信憑性がないような気がしますが。
5: 2002/10/27(日) 23:35 玉川雄一[関東] > (2001/09/02(Sun) 08:55:45) 新発見(苦笑)ではないのですが、先日図書館でちくま正史の文庫版を見ました。すると、こちらでも顧雍の享年誤植がそのままになっていたのですね。なんともはや… やっぱり、複数の史料をつきあわせるのって大事ですね。
6: 2002/10/27(日) 23:35 MOS[外国] > (2001/09/02(Sun) 09:00:35) 1について言及すると、単におそらく「曹丕のイジワル」でしょう(^^; トウカイテイオー曹霖と平原侯曹植を比べたのは、 「長子ではないが父に寵愛を受けた」という点だと思いますよ♪ ただ、曹丕の恐ろしいのは、 ここで曹植を誉め過ぎ、テイオーについても誉めるようであれば、 「ではワシはどうじゃ?」と問いかけるつもりだったであろう所です。 正直、一家臣にこの問いはツライですよね?(^^ゞ 「次子でも位を継ぐことは有り得る」というのを認めるような発言をしておきながら、 曹丕も誉めるようでは帝からの信頼は確実に無くなりますし、無論曹丕を誉めないワケには行かない。 かといって、テイオーを貶すわけにもいかず、帝の弟である曹植も貶めてしまえば怒りを買うかもしれない。 そんな八方塞の状況で、衛シンは「曹植だけを誉め、テイオーには全く触れなかい」という 唯一にして最高の返答をした、という所でしょう♪(^^) ちなみに、曹丕は曹叡にしか継がせるつもりは無かった、と思いますよ。 だって、他の人物を立てようモノなら、自分の存在意義すら問われてしまいますから(笑) 2についてもちょこっとだけ。。 孟達の乱から9年喪に服していますから、おそらく230年代後半に招聘されたのだと思います。 とすれば・・・めちゃめちゃオカシイっす、この記事。(^^ゞ なぜなら、まず、鐘ヨウは既に亡くなっています(230年死亡)。 鐘会はまだ成人していなく、官には就いていないと思うんですが・・・集解の論はどうなんでしょう?(^^; オイラが可能性があると思っているは鐘イクですが・・・鐘イクがこの台詞は「??」です(笑) 松竹梅さん同様、オイラも「事実では無い」と思いますよ♪(^^)
7: 2002/10/27(日) 23:36 japan[関東] > (2001/09/02(Sun) 21:38:31) ご解答いただき、ありがとうございます。 >松竹梅、MOS様 まず2については、225年生まれの鍾会が二十歳前に尚書になっているというのはどう考えても変なので、鐘イクとするのが無難ですね。 仮にフィクションだとしても、年代くらいはボロがでないようにすれば良かったのに…だから『世語』は信憑性が低いといわれるのでしょう。 1については、MOS様の↓のご意見に目から鱗が落ちました。 >トウカイテイオー曹霖と平原侯曹植を比べたのは、 >「長子ではないが父に寵愛を受けた」という点だと思いますよ♪ >ただ、曹丕の恐ろしいのは、 >ここで曹植を誉め過ぎ、テイオーについても誉めるようであれば、 >「ではワシはどうじゃ?」と問いかけるつもりだったであろう所です。 なるほど〜。皇帝=自分の私情に媚びて、国家の綱紀を曲げるような人物であるかを見極めようとしていた訳ですね。 確かにその説の方が、「曹霖を可愛がるあまり、彼を太子に立てようか逡巡する」より曹丕らしいような気がします。 しかし、我が子への愛情さえ臣下を試す道具として用いる曹丕――父・曹操も比較にならないほどの冷徹さですなぁ。
8: 2002/10/27(日) 23:36 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/09/02(Sun) 23:40:00) おお、japan様、早速の情報ありがとうございます〜!そしてお答え下さった皆様、大感謝です! で、ええと、(1)平原侯→平原王?事件!確かに「帝問秦、平原侯如何」とあります。ここからはMOS様の推察が光ります!曹丕に仕える者は、その一語一句にも細心の注意を払う必要があるんですね…。ストレスたまるでしょうな…。 で(2)鍾ヨウ→鍾会?事件! これは世語一流のどっかから持ってきた逸話説に、私も賛成します。またしても決め手となったのはタイムテーブルによる考察ですね〜(^_^)
9:feary 2011/10/11(火) 19:18:20 ID:2RM4sqUi0 [moon@yahoo.co.jp] こうなったら最後まで突っ走ってみろ。暴走か逆走かしらねぇけど。ヾ(*′∀`*)ノ※ mbtu.net/img/def300014
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