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後漢末・名士の関係
1: 2002/10/30(水) 00:26 MOS はぁ〜〜〜、書いていたら手違いで全部消してしもうた。。。 というワケで再度書き直し〜〜♪ ネタは・・・こりゃまたマイナー野郎の袁譚麾下の将軍、郭援です!! ウチの人物列伝でも賈逵の段で多少紹介していますが、 彼は袁譚・袁尚連合の最中、高幹と共に長安方面に侵攻するものの、 鐘ヨウ率いる馬騰などの軍に撃破され、馬騰配下の部隊長ホウ悳によって首を取られています。 また、対峙した鐘ヨウは彼にとってオジ(嫁の父だったかと)に当たるとか。 いきなりですが、最近オイラは後漢末の情勢に興味があり、 三国志研究要覧を必死で探すほどの熱の入れようです♪ そこでちょっと気付いたのですが、彼、郭援は・・・郭図の一族ではないでしょうか?? 郭図の息子とまではいかずとも、可能性は非常に高いと思われます。 なぜなら、郭図は著名な潁川郡人士であり、鐘ヨウも潁川郡人士。 その鐘ヨウと郭姓である郭援が甥−オジ関係にあるのであれば・・・ 有り得る話だと思うのですが、どうでしょう? こういう時、後漢書を持っていない事と漢文を読めない事が物凄く残念でなりませんなぁ(^^ゞ
2: 2002/10/30(水) 00:26 ぐっこ 2001年10月11日木曜日 23時01分 なるほど!今まで想像もしていませんでしたが、言われてみればその可能性もありますよね! で、ちょっと調べてみたのですが…少なくとも手持ちの後漢書には郭援の記載はなく…中林先生の漢文全籍資料庫で検索をかけても、基本的に三国志と同じ内容のみ…。 うう…お役に立てずに申し訳ないです〜。他にも潁川郭氏がいるかな〜、と思ってパラパラと見たら…郭嘉と郭誕しかいない(T_T)
3: 2002/10/30(水) 00:27 japan 2001年10月12日金曜日 21時54分 『郭図−郭援−郭嘉同族説』は私も考えた事がありました。 潁川の名士は「相対する勢力の双方に一族の構成員を送り込む」という戦略を取ることがあるので、郭図と郭嘉も袁紹・曹操方に分かれて密かに連携していたのではないかと… そうなると「出ると負け軍師」の異名を持ち、ことごとく袁氏に不利な進言ばかりしていた郭図の真意も、或いは――などと妄想が尽きません(笑)。
4: 2002/10/30(水) 00:27 ぐっこ 2001年10月13日土曜日 01時27分 おお、なるほど!潁川名士って、案外したたか!真田家のようです(;^_^A 確かに彼の進言は悉くが裏目に出、全て曹家の肥やしになってますね。秘本三国志の劉備的役割を!? 妄想が絶えない(;^_^A 郭家の先祖って、誰なんでしょ? 少なくとも漢初の頃にはそれなりの人物がいてそう〜。
5: 2002/10/30(水) 00:27 黒竜 2001年10月13日土曜日 02時12分 後漢書をながめたところ 穎川郡陽テキの郭躬という人が見つかりました。 彼の甥の郭鎭が皇帝廃立計画を未然に防いだことが 一族繁栄のきっかけのようです。 一族は郭躬の父、郭弘の代より法律に秀で 子孫は、公者一人、廷尉七人、侯者三人、刺史太守侍中中郎将は二十余人。 とかなり繁栄してるんですが、 残念ながら、嘉、図、援の名前は見つかりませんでした…」
6: 2002/10/30(水) 00:27 MOS 2001年10月13日土曜日 02時48分 ふむぅ。 黒竜さんの仰る郭躬が彼らの一族の前代の人物である事は間違い無さそうですね♪ ところで、郭躬が未然に防いだ皇帝廃立計画というと、やはり梁冀の件でしょうか?? >嘉、図、援 彼らの名前が出ないのは致し方ないでしょう。 3人とも確たる地位に上っていないですし、功績もさほどではありませんから(^^ゞ それにしても、公まで出しているとはビックリですなぁ。。 >郭図 彼はそこまで無能ではないと思いますよ♪ 魏志で悪し様に書かれているのは、魏を肯定しようとする書が多く、 陳寿がそれらに則って書いたからではないでしょうか? ウチの沮授伝でもちょっと触れましたが、 演義小説では、郭図の功績が掻き消されていたり、結果論的に書かれている面も否めなかったりしますから(^^)
7: 2002/10/30(水) 00:28 MOS 2001年10月13日土曜日 05時14分 むぉ!! 郭躬さん、三國志杜恕伝に登場してますぞ!! もちろん杜恕伝ですから、あの異様〜〜に長い上層文の中の1節です(笑) 孔羨が司馬懿のキチガイな弟を招聘した事に対して、 少府の竇嘉が廷尉であった郭躬さんの(マトモな)弟を招聘した時ですら非難されたのに 「孔羨は何をしておる!?」と非難を浴びせた、という事らしいですね。
8: 2002/10/30(水) 00:28 黒竜 2001年10月13日土曜日 21時12分 梁冀の一歩前です。それと昨日の時点での自分翻訳に間違いが… 安帝から順帝のあいだに北郷侯劉懿という短命の幼帝がいたのですが その死後、外戚閻氏と宦官孫程等の間で皇帝擁立争いがあり、 まず孫程が擁立したのが後の順帝なんですが、 機先を制され兵を率いて宮中に向かっていた閻氏の要人、閻景を捕らえたのが 当時、尚書の官にあり病身でもあった郭鎭だったというわけです。 廃立というか擁立というか… つまり後漢らしいゴタゴタです。
9: 2002/10/30(水) 00:28 ぐっこ 2001年10月13日土曜日 21時50分 審配はあれだけ格好良く死んでるというのに…。同じ反沮授派でどうして…。それに郭図だって、曹操に先んじて帝擁立を具申してますよねえ…不憫な。 常識的に考えれば、主君の意に阿って弟を擁立した審配らのほうこそ逆心あつかいされるでしょうし、まして袁譚は、手腕はともかく人物的には「蒼天」の像がしっくりするくらいの好男子だった模様。 袁家の跡目争いも、しょせんは冀州閥と潁川閥の戦いだったわけなんですね…。
10: 2002/10/30(水) 00:29 ぐっこ 2001年10月13日土曜日 21時56分 あ、それと郭氏の前身!そのあたり(孫程のクーデター)、むか〜し曹騰の小説みたいなのを書いた時にちょっとだけ勉強しました(*^。^*) そ、そうだったのか! 名前忘れてましたけど、あのとき既に潁川の郭氏が登場していたのですか!? ううむ、三国志を一通り理解するためには、通史で勉強しなきゃならないことを痛感します…。
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