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後漢末・名士の関係
11: 2002/10/30(水) 00:29 左平(仮名) 2001年10月14日日曜日 00時57分 黒竜さんの仰る事件ですが、、次回あたり、宮城谷三国志で描かれそうです(今回、ようやく安帝が崩じました。で、擁立されたのが北郷侯)。楽しみです。
12: 2002/10/30(水) 00:29 ぐっこ 2001年10月14日日曜日 21時57分 おお、今月号読むの忘れてた! もう(まだ?)そのあたりですねー! しかし想像以上にパースの長い三国志になりそう…。このぶんだと桓帝が崩御するくらいで単行本第一巻ってところ。第二巻で曹操が成人・北部尉・県令・議郎・隠棲くらいでしょうか?
13:中根東竜 2002/11/14(木) 17:17 ぐっこさん、掲示板の整理お疲れさまです。 >郭援 穎川郭氏よりも大きい太原郭氏の可能性もあると 思います。歴代正史(『後漢書』『晋書』)などで 出てくる郭氏は、太原のほうが多いですよ。 というより、穎川郭氏・・この時代以外には 殆ど歴史に登場しないですよ。僕も郭嘉にかんしていろいろ みてはいるのですが、子孫もいないようですねぇ・・
14:★ぐっこ 2002/11/14(木) 19:38 中根様、お久しぶりです! 郭援…ああ、太原の方がバリューあったんですかー。 確かに西部方面の大将の一人ですから、地元にちかい太原の 方が説得力ありますね…。 ただ、鍾氏と縁続き、となるとどうしても潁川の方へ目が。 ついでに郭図の例もありますし、微妙なラインなのかなあと(^_^;) でも潁川の郭氏は三国志までですか…。もう没落てしまうのか… かの『新唐書』宰相世系表にも、その名は見られないんでしょうか? 当時の郭氏はみな太原のほうの子孫を名乗ってたんでしょうねえ…
15:もす 2002/11/16(土) 21:07 どもども〜。そう、太原郡の方が遥かに格上なんですよね〜。 さて、『新唐書表』には太原郡の方のみで、潁川陽テキの郭氏は載ってないですねぇ。(^^ゞ んで、「太原郡の郭氏は(後漢の郭鎮の後裔が)潁川に徙った」とあります。 さらに、『新唐書列伝』には、郭孝恪は陽テキ県の人で陽テキ郡公、宋州刺史を拝したともあります。 以上から私が言える事は・・・ 郭援については分からない、ってことっす(笑)
16:松竹梅 2002/11/20(水) 21:16 大原郭氏もいいけど、冀州にもでっかい郭氏がいますね。 後漢初代光武帝の最初の皇后・郭皇后を出した真定郭氏もいいですね。 まあ、郭氏自体は光武帝にの皇后を廃されたあとあんまり振るわないんだけど
17:松竹梅 2002/11/20(水) 21:20 河北の郭氏なら、真定の郭氏もおいしいですよ。 なんといっても、光武帝の皇后を出した家柄だから・・・ まあ、その郭皇后ってのがタカビーだったので、 皇太后を廃位されてその後余り郭氏は振るわないんですが・・・
18:★ぐっこ 2002/11/21(木) 21:49 そういえば事の発端は郭援だったんですねえ。 結局結論は見ず… あーでも、郭孝恪って方はかなりそれっぽそう。潁川郭氏の末裔…? で、真定の郭氏。なんか、陳瞬作品で酷い描かれ方してた様な気がします。 あー、いちおう王室ゆかりの家門だったのか…
19:中根東竜 2003/03/10(月) 03:03 >で、真定の郭氏。なんか、陳瞬作品で酷い描かれ方してた様な気がします。 あー、いちおう王室ゆかりの家門だったのか… あ、陳舜臣の郭氏に関する描写は、『後漢書』関係のBBSで まえに話題に上ったのですが、多分に怪しいようですよ。 陳さんは後漢初期がらみではミスがあるみたいです(奴隷解放云々 の件とか、怪しい描写は他にもあるっすよ) 真定の郭氏は皇后廃位以降も勢力は変わらなかったとか (爵位が変わらなかったらしい)
20:★ぐっこ 2003/03/13(木) 23:22 やや、随分懐かしいスレが…。中根東竜さま、ありがとうございます。 さて、陳舜作品。後々思いますに、小説十八史略あたりだったかと。 ジェラシった郭氏が、とりあえず「悪女」のお手本みたいな活躍をした 後、一族ごと失脚、という内容だったと思います。 実際は、そうではなかったと(^_^;) ああ、真定の郭氏の勢力はそれほど揺るがず、ですか。 宮中での権勢はさすがに後退したでしょうけど… うーん、とりあえずメタ資料が無いので、作家先生が事実と 違った解釈をしていても、私ゃ気づきようが無いなあ… 中根東竜様をはじめ、本格的に史学やってらっしゃる方がうらやますぃ…
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