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後漢末・名士の関係
22:★ぐっこ 2003/03/16(日) 00:56 >それ以降の郭氏は洛陽に居住し、 >一族も繁栄を続けた 全くもって陳先生のお話を信じてましたんで調べもしませんでしたが、 確かに郭皇后紀にも家門没落の話なんか無いですね… というか、郭氏の代々が列挙されてましたが、九卿クラスを歴任する など、失脚のカケラもなし。「一族も繁栄を続けた」のが事実っぽいですね… 参照先のサイト拝見しました! 後漢初記の人物解説コーナー、かなり詳しそう ですから、あとからじっくり読み込んできます。 >現職はエンジニア Σ( ̄□ ̄;)!!そういえば、以前に学部スレ立てたときもありましたか… 「三国志」を調べるのに後漢書や晋書、各集解、他漢籍を読み尽くすタイプ の方って、理系に進まれてるケースが多いのでした(^_^;) リンク先のサイト管理人様も、別の分野で本を出版されてるようで…
23:MM2 2003/10/05(日) 14:20 はじめまして。 どこに書いていいか分からなかったので興味のあるところに書き込みます。 桓帝〜霊帝の南陽の出身者って宦官とつるんでる人が多いですね。 宦官の曹節の影響が強かったんだと思います。 でもそんな中で桓帝〜霊帝時代の名士ランキングに名前を連ねてる人が2人もいるわけで あれはそういう力ある豪族へ配慮してのランキングだと思っているのです。 どこかの本にもありましたが三君なんてまんま外戚・皇族・官僚トップのトリコロールですしね。 ちょっと時代のずれた話でした。では。
24:★ぐっこ 2003/10/06(月) 00:37 あ、MM2様。ようこそお越し下さいました! まずは三国志辞典の追加、乙です!党錮周辺のボリューム に圧倒されました…。ていうか、凄い。半ばフィーリングであのあたりの解読してた私にとっては、 非常にありがたいです!また勝手ながら参考にさせて頂きますね〜! 用途は主にイロモノですが(__;) で、桓霊の頃の清流ランキング。 当時の南陽出身者は、確かに宦官がらみが多そうですね。 宦官で侯に任じられた連中の中でも、鄭衆、王国のあたりから始まって、李建、李元、 楊佗、魏猛、それと曹節と、結構な数が南陽のどこかに封地を貰っているみたいで。 それだけ本貫としている人たちが多かったのでしょうから、そこの出身者が中央で 地位と名声を持続するには、やはり先輩参りとかをしないとダメだったんでしょうか。 ランキング結果も、世に阿るほどのものではないですけど、多少恣意的な得票結果っぽい ところはありますね…。 基本姿勢は反宦官で一致してるんでしょうけど、清流も色んな派閥があるみたいですし。 三君は…あ、本当だ(^_^;)。見事に三位一体。竇武と陳蕃はいいとして。 ただ、ランキング付けをしていた人々の中でも、特にコアな人々と、太学でやはり人物評 を繰り広げていた党人予備軍の人々は、どちらかといえば清濁の旗幟を曖昧にしてる大物 よりも、わりと身分の低い、そのかわり病的に廉潔な人士を推していた模様。一種の野党層を 形成してたみたいなものでしょうか。 どうにも官僚と宦官の対立というと、絶対悪と絶対善の最終戦争みたいな様相がありますが、 イロイロ複雑みたいですね(^_^;)
25:★玉川雄一 2004/10/03(日) 03:51 ちょっと余所様の所で調べ物していて気付いたのですが。 呂布や張バクがエン州で反乱したとき、豫州刺史の郭貢って人が出張ってきたけど 荀イクの説得で矛を収めた、っつう話がありましたよね。 この郭貢って素性が不明なんですけどどうなんでしょ? 潁川郭氏の関係者で、地元の有力者として出世して 豫州刺史になったりとかそういう推測はできませんかね。 もしくは潁川郭氏に限定せんでもどこかの名族郭氏の一門とか。 あとそれに関して思ったんですけど、自分の本籍地を統治する官に 就いて良かったんでしたっけ? どこかで、できないって読んだような記憶がなくもないんですが まるきり思い違いですかね。 魏晋期の中正官についてだったかしら? うろ覚えで申し訳ない。 私ももう一度記憶を頼りに確認してみます。 で、郭貢について何か情報がありましたらご教授よろしくお願いします
26:★ぐっこ 2004/10/05(火) 01:03 郭貢…ありうるような。 あうー…その本貫を避けるっての、後漢コピー資料の中にある筈 なのに見つからんッ!後で必ず見つけます!少なくとも太守は NGだったような。掾以下ですやね、現地採用は。
27:MM2 2004/10/06(水) 01:01 ご無沙汰しております。MM2です。 太守の件、記憶にはあるのですがソース見つけられませんでした。 私もぐっこさんに期待します。という事で以下中正・刺史の件。 中正は父老・三老の延長で制度化されたものだったと思うので、 基本的には郷論=地元豪族の意向にある程度沿った形で挙げられるため、 中正となる人も地元の人なのではないでしょうか? よく調べてないのですが、晋書から例をあげます。 燕国の劉沈…燕国の大中正 呉郡の顧衆…揚州の大中正 丹楊の張[門豈]…本郡の大中正 呉郡の陸玩…本州の大中正 刺史は監察官なので郡県の非法を監督するのに本籍の者では調子が悪いのではないでしょうか? ざっと後漢書を調べた感じでは出身州の刺史になった人はいませんでした。 ただ、これは平時の場合の話であって、後漢末のような乱時の場合だと 出身州の刺史に任じた方が説得力があるような気がしますね。 しかしそれだと長官(この頃の刺史を牧と同格とみなした場合)と治所の結びつきが強すぎて 後に切り離す時とか扱いに気を配りそうですけど。 結構大雑把に調べたので間違ってたらすみません。 郭貢についてはあまり調べられなかったのですが、何かわかればまた書き込みます。では。
28:★玉川雄一 2004/10/06(水) 01:44 援護射撃深謝! で、中正官ですけど。ご指摘の通り私のまるきり勘違いでした。 『魏晋南北朝』を読むと“各郡国の出身者一名をそれぞれの郡国の「中正」という役職に任命し” とありますから地元の人じゃないといかんのでしたわね。 ちなみに司馬懿が設置した州大中正は実質的に朝廷の高官が兼任することが多く、 そのためこのシステムが結局は権門有利な傾向に流れる要因となったとか。 山川の『中国史』でも二品以上の有力者が中正官への就任や 州大中正の選出に関わることができたとのことで、 ガチガチの地元名士優遇コースだったわけか。そりゃそうやんなあ。 確かに、「本国大中正」とか晋書の伝によく出てきましたわね。 灯台もと暗しだったか… とすると刺史だの太守だのの方だったのかなあ… 引き続き捜索の幅を広げてみるとします。
29:白崎ゆきと 2004/10/18(月) 22:44 お久しぶりです。白崎です。 窪添慶文『魏晋南北朝における地方官の本籍地任用について』からの孫引きですが、 「かつて浜口重国氏は、後漢時代においては、郡の長官である太守・次官である丞は 本郡任を、県の長官である令・長、次官にあたる丞・尉は本県任ならびに本郡内の 諸県への就任を回避せしめる原則が成立しており、それは前漢の武帝中期以降に 始まったものであること、刺史についても同様のことが言えることを明らかにされ」 「浜口重国氏は、本籍地任用回避が行われたのは後漢末霊帝の頃までであって、 「霊帝の世に黄巾の大乱が勃発し、引続いて西方に流賊が横行し始めた後は 大分事情を異にする」と述べておられる」 だそうですよ。 また、この論文によると、 ・後漢末での本籍任用例:7(刺史2、太守5) ・三国時代:3(刺史1、太守2) ・武帝時代の西晋:0 ・八王の乱以降の西晋:14(刺史2、太守12) なんだとか。 これ以上、丸写しにするのはさすがに良心がとがめますので、 この論文の総論等を知りたい方は実際に手を取ってみてください。 『史学雑誌』の1974年1・2号収録です。 最近はすっかりご無沙汰だったのですが、やっぱり制度関連の話は面白いですね。
30:★玉川雄一 2004/10/21(木) 00:14 わ、実際に調べた人がいるんだ。 白崎さんもよくぞ見つけて下さいました。 『史学雑誌』ですか。現役学生の頃だったら大学図書館で チョイチョイっと読めたんだろうになあ… ところでその論文には、任用例は名前まで判明しているんでしょうか。 それとも、おおもとの浜口氏の論考まで遡らないといけないのかしら…
31:★ぐっこ 2004/10/21(木) 00:32 お久しぶりです! そしてありがとうございます!白崎ゆきと様! うーん…やっぱり見つからないです、資料(^_^;) 当該の記述部分が その浜口重国先生のものと似ていましたから、出典は同じだったのかも。 なるほど、少なくともナンバー2までは本籍地を回避でしたか。 となると太守や県令なんてのは、本当に中央からの出向って立場が、想像以上に露骨 だったんですねえ…。執政のうえでは、現地採用の叩き上げor癒着型役人の協力が 必要不可欠だったでしょうから、思うほどの手腕を振るえなさそう。 それでもなお、赴任先で霊廟を建立されるくらいに慕われた名太守・名刺史が出る わけで、彼らの偉大さが余計に分かる気がします。あと、人事の感覚とか。 それにしても、史雑誌ですか…(^_^;) 中央図書館の閉架書庫にバックナンバー一式 あったような… と、またまた図書館通いケテーイ!
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