後漢末・名士の関係
35:★玉川雄一2004/10/23(土) 18:52AAS
ちなみに王遜ってこんな人。

王遜(?-323)、字は邵伯、魏興の人。

郡に仕えて孝廉に察せられて吏部令史となり、殿中将軍に転じ累遷して上洛太守となる。ついで魏興太守に転じる。

永嘉四年(310)、南夷校尉、寧州刺史として南中地方に赴く。
当時益州は既にテイ族の李雄に征服されており、寧州もその脅威にさらされていた。
着任した王遜は辣腕を振るい始めたのだが、刑罰を濫用して反対者を次々と粛清してゆく。
ともかくも武威による支配で寧州を平定し、
東晋元帝から散騎常侍、安南将軍、仮節を加えられ褒中県公に封じられた。
その後寧州の諸郡を分割して再編を行った。

蜀(成漢)の李雄とはしばしば交戦状態にあったが、323年には越スイ、漢嘉の二郡が李雄に降った。
さらに李雄の叔父の李驤が寧州に侵攻したが、王遜は将軍の姚崇(姚岳か)と爨琛(サンシン)を遣わす。
両軍は堂狼の地で激突したが晋軍が大勝し、姚崇は追撃戦を行ったが、
瀘水まで到達したところで追撃を停止した。
だが王遜はこれを不徹底として麾下の指揮官を捕らえ、姚崇を鞭打った。
髪が逆立ち冠を裂いたというほどの激しい怒り様だったが、
なんとその夜中に王遜は死去してしまったのだった。

王遜には普段より流血を厭わず、寧州の統治も度重なる粛清によって行われていた。
個人的にも嗜虐の性向が強かったようだが、それが昂じたあまりに憤死(?)するというのも凄まじい。

王遜の死後、子の王堅がその地位を嗣いだが、
陶侃は彼では成漢には対抗できないとして尹奉と交替させた。
王堅は建康に帰還して後に病死した。
その兄の王澄が爵位を嗣ぎ、魏興太守、散騎常侍を歴任した。

というわけで、王遜の子の王澄も本籍地に任官していました。
これはカウントに入っているのでしょうかね。
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