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後漢末・名士の関係
15:もす 2002/11/16(土) 21:07 どもども〜。そう、太原郡の方が遥かに格上なんですよね〜。 さて、『新唐書表』には太原郡の方のみで、潁川陽テキの郭氏は載ってないですねぇ。(^^ゞ んで、「太原郡の郭氏は(後漢の郭鎮の後裔が)潁川に徙った」とあります。 さらに、『新唐書列伝』には、郭孝恪は陽テキ県の人で陽テキ郡公、宋州刺史を拝したともあります。 以上から私が言える事は・・・ 郭援については分からない、ってことっす(笑)
16:松竹梅 2002/11/20(水) 21:16 大原郭氏もいいけど、冀州にもでっかい郭氏がいますね。 後漢初代光武帝の最初の皇后・郭皇后を出した真定郭氏もいいですね。 まあ、郭氏自体は光武帝にの皇后を廃されたあとあんまり振るわないんだけど
17:松竹梅 2002/11/20(水) 21:20 河北の郭氏なら、真定の郭氏もおいしいですよ。 なんといっても、光武帝の皇后を出した家柄だから・・・ まあ、その郭皇后ってのがタカビーだったので、 皇太后を廃位されてその後余り郭氏は振るわないんですが・・・
18:★ぐっこ 2002/11/21(木) 21:49 そういえば事の発端は郭援だったんですねえ。 結局結論は見ず… あーでも、郭孝恪って方はかなりそれっぽそう。潁川郭氏の末裔…? で、真定の郭氏。なんか、陳瞬作品で酷い描かれ方してた様な気がします。 あー、いちおう王室ゆかりの家門だったのか…
19:中根東竜 2003/03/10(月) 03:03 >で、真定の郭氏。なんか、陳瞬作品で酷い描かれ方してた様な気がします。 あー、いちおう王室ゆかりの家門だったのか… あ、陳舜臣の郭氏に関する描写は、『後漢書』関係のBBSで まえに話題に上ったのですが、多分に怪しいようですよ。 陳さんは後漢初期がらみではミスがあるみたいです(奴隷解放云々 の件とか、怪しい描写は他にもあるっすよ) 真定の郭氏は皇后廃位以降も勢力は変わらなかったとか (爵位が変わらなかったらしい)
20:★ぐっこ 2003/03/13(木) 23:22 やや、随分懐かしいスレが…。中根東竜さま、ありがとうございます。 さて、陳舜作品。後々思いますに、小説十八史略あたりだったかと。 ジェラシった郭氏が、とりあえず「悪女」のお手本みたいな活躍をした 後、一族ごと失脚、という内容だったと思います。 実際は、そうではなかったと(^_^;) ああ、真定の郭氏の勢力はそれほど揺るがず、ですか。 宮中での権勢はさすがに後退したでしょうけど… うーん、とりあえずメタ資料が無いので、作家先生が事実と 違った解釈をしていても、私ゃ気づきようが無いなあ… 中根東竜様をはじめ、本格的に史学やってらっしゃる方がうらやますぃ…
21:中根東竜 2003/03/16(日) 00:14 >ああ、真定の郭氏の勢力はそれほど揺るがず、ですか。 『後漢書』光武本紀下では「皇后郭氏を廃して中山太后と為す」 としているだけですね、一族没落の話はどこから陳氏が 持ってきたのかわかんないです。 それ以降の郭氏は洛陽に居住し、 一族も繁栄を続けたと、以下のサイトで教わりました。 http://www2.justnet.ne.jp/~kays/m-yinleika.htm >中根東竜様をはじめ、本格的に史学やってらっしゃる方がうらやますぃ… あはは、僕は史学を本格的にやったことはないです。史学科も 出ていませんしね(中国文学科を出て現職はエンジニア)。 上の意見も、『後漢書』の拾い読みと他の方のサイトで知ったようなモノですし。
22:★ぐっこ 2003/03/16(日) 00:56 >それ以降の郭氏は洛陽に居住し、 >一族も繁栄を続けた 全くもって陳先生のお話を信じてましたんで調べもしませんでしたが、 確かに郭皇后紀にも家門没落の話なんか無いですね… というか、郭氏の代々が列挙されてましたが、九卿クラスを歴任する など、失脚のカケラもなし。「一族も繁栄を続けた」のが事実っぽいですね… 参照先のサイト拝見しました! 後漢初記の人物解説コーナー、かなり詳しそう ですから、あとからじっくり読み込んできます。 >現職はエンジニア Σ( ̄□ ̄;)!!そういえば、以前に学部スレ立てたときもありましたか… 「三国志」を調べるのに後漢書や晋書、各集解、他漢籍を読み尽くすタイプ の方って、理系に進まれてるケースが多いのでした(^_^;) リンク先のサイト管理人様も、別の分野で本を出版されてるようで…
23:MM2 2003/10/05(日) 14:20 はじめまして。 どこに書いていいか分からなかったので興味のあるところに書き込みます。 桓帝〜霊帝の南陽の出身者って宦官とつるんでる人が多いですね。 宦官の曹節の影響が強かったんだと思います。 でもそんな中で桓帝〜霊帝時代の名士ランキングに名前を連ねてる人が2人もいるわけで あれはそういう力ある豪族へ配慮してのランキングだと思っているのです。 どこかの本にもありましたが三君なんてまんま外戚・皇族・官僚トップのトリコロールですしね。 ちょっと時代のずれた話でした。では。
24:★ぐっこ 2003/10/06(月) 00:37 あ、MM2様。ようこそお越し下さいました! まずは三国志辞典の追加、乙です!党錮周辺のボリューム に圧倒されました…。ていうか、凄い。半ばフィーリングであのあたりの解読してた私にとっては、 非常にありがたいです!また勝手ながら参考にさせて頂きますね〜! 用途は主にイロモノですが(__;) で、桓霊の頃の清流ランキング。 当時の南陽出身者は、確かに宦官がらみが多そうですね。 宦官で侯に任じられた連中の中でも、鄭衆、王国のあたりから始まって、李建、李元、 楊佗、魏猛、それと曹節と、結構な数が南陽のどこかに封地を貰っているみたいで。 それだけ本貫としている人たちが多かったのでしょうから、そこの出身者が中央で 地位と名声を持続するには、やはり先輩参りとかをしないとダメだったんでしょうか。 ランキング結果も、世に阿るほどのものではないですけど、多少恣意的な得票結果っぽい ところはありますね…。 基本姿勢は反宦官で一致してるんでしょうけど、清流も色んな派閥があるみたいですし。 三君は…あ、本当だ(^_^;)。見事に三位一体。竇武と陳蕃はいいとして。 ただ、ランキング付けをしていた人々の中でも、特にコアな人々と、太学でやはり人物評 を繰り広げていた党人予備軍の人々は、どちらかといえば清濁の旗幟を曖昧にしてる大物 よりも、わりと身分の低い、そのかわり病的に廉潔な人士を推していた模様。一種の野党層を 形成してたみたいなものでしょうか。 どうにも官僚と宦官の対立というと、絶対悪と絶対善の最終戦争みたいな様相がありますが、 イロイロ複雑みたいですね(^_^;)
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