下
後漢末・名士の関係
6:2002/10/30(水) 00:27
MOS 2001年10月13日土曜日 02時48分
ふむぅ。
黒竜さんの仰る郭躬が彼らの一族の前代の人物である事は間違い無さそうですね♪
ところで、郭躬が未然に防いだ皇帝廃立計画というと、やはり梁冀の件でしょうか??
省19
7:2002/10/30(水) 00:28
MOS 2001年10月13日土曜日 05時14分
むぉ!!
郭躬さん、三國志杜恕伝に登場してますぞ!!
もちろん杜恕伝ですから、あの異様〜〜に長い上層文の中の1節です(笑)
省10
8:2002/10/30(水) 00:28
黒竜 2001年10月13日土曜日 21時12分
梁冀の一歩前です。それと昨日の時点での自分翻訳に間違いが…
安帝から順帝のあいだに北郷侯劉懿という短命の幼帝がいたのですが
省11
9:2002/10/30(水) 00:28
ぐっこ 2001年10月13日土曜日 21時50分
審配はあれだけ格好良く死んでるというのに…。同じ反沮授派でどうして…。それに郭図だって、曹操に先んじて帝擁立を具申してますよねえ…不憫な。
常識的に考えれば、主君の意に阿って弟を擁立した審配らのほうこそ逆心あつかいされるでしょうし、まして袁譚は、手腕はともかく人物的には「蒼天」の像がしっくりするくらいの好男子だった模様。
袁家の跡目争いも、しょせんは冀州閥と潁川閥の戦いだったわけなんですね…。
10:2002/10/30(水) 00:29
ぐっこ 2001年10月13日土曜日 21時56分
あ、それと郭氏の前身!そのあたり(孫程のクーデター)、むか〜し曹騰の小説みたいなのを書いた時にちょっとだけ勉強しました(*^。^*)
そ、そうだったのか! 名前忘れてましたけど、あのとき既に潁川の郭氏が登場していたのですか!?
ううむ、三国志を一通り理解するためには、通史で勉強しなきゃならないことを痛感します…。
11:2002/10/30(水) 00:29
左平(仮名) 2001年10月14日日曜日 00時57分
黒竜さんの仰る事件ですが、、次回あたり、宮城谷三国志で描かれそうです(今回、ようやく安帝が崩じました。で、擁立されたのが北郷侯)。楽しみです。
12:2002/10/30(水) 00:29
ぐっこ 2001年10月14日日曜日 21時57分
おお、今月号読むの忘れてた! もう(まだ?)そのあたりですねー!
しかし想像以上にパースの長い三国志になりそう…。このぶんだと桓帝が崩御するくらいで単行本第一巻ってところ。第二巻で曹操が成人・北部尉・県令・議郎・隠棲くらいでしょうか?
13:中根東竜2002/11/14(木) 17:17
ぐっこさん、掲示板の整理お疲れさまです。
>郭援
穎川郭氏よりも大きい太原郭氏の可能性もあると
思います。歴代正史(『後漢書』『晋書』)などで
省10
14:★ぐっこ2002/11/14(木) 19:38
中根様、お久しぶりです!
郭援…ああ、太原の方がバリューあったんですかー。
確かに西部方面の大将の一人ですから、地元にちかい太原の
方が説得力ありますね…。
ただ、鍾氏と縁続き、となるとどうしても潁川の方へ目が。
ついでに郭図の例もありますし、微妙なラインなのかなあと(^_^;)
省10
15:もす2002/11/16(土) 21:07
どもども〜。そう、太原郡の方が遥かに格上なんですよね〜。
さて、『新唐書表』には太原郡の方のみで、潁川陽テキの郭氏は載ってないですねぇ。(^^ゞ
んで、「太原郡の郭氏は(後漢の郭鎮の後裔が)潁川に徙った」とあります。
さらに、『新唐書列伝』には、郭孝恪は陽テキ県の人で陽テキ郡公、宋州刺史を拝したともあります。
省7
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