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後漢末・名士の関係
28:★玉川雄一 2004/10/06(水) 01:44 援護射撃深謝! で、中正官ですけど。ご指摘の通り私のまるきり勘違いでした。 『魏晋南北朝』を読むと“各郡国の出身者一名をそれぞれの郡国の「中正」という役職に任命し” とありますから地元の人じゃないといかんのでしたわね。 ちなみに司馬懿が設置した州大中正は実質的に朝廷の高官が兼任することが多く、 そのためこのシステムが結局は権門有利な傾向に流れる要因となったとか。 山川の『中国史』でも二品以上の有力者が中正官への就任や 州大中正の選出に関わることができたとのことで、 ガチガチの地元名士優遇コースだったわけか。そりゃそうやんなあ。 確かに、「本国大中正」とか晋書の伝によく出てきましたわね。 灯台もと暗しだったか… とすると刺史だの太守だのの方だったのかなあ… 引き続き捜索の幅を広げてみるとします。
29:白崎ゆきと 2004/10/18(月) 22:44 お久しぶりです。白崎です。 窪添慶文『魏晋南北朝における地方官の本籍地任用について』からの孫引きですが、 「かつて浜口重国氏は、後漢時代においては、郡の長官である太守・次官である丞は 本郡任を、県の長官である令・長、次官にあたる丞・尉は本県任ならびに本郡内の 諸県への就任を回避せしめる原則が成立しており、それは前漢の武帝中期以降に 始まったものであること、刺史についても同様のことが言えることを明らかにされ」 「浜口重国氏は、本籍地任用回避が行われたのは後漢末霊帝の頃までであって、 「霊帝の世に黄巾の大乱が勃発し、引続いて西方に流賊が横行し始めた後は 大分事情を異にする」と述べておられる」 だそうですよ。 また、この論文によると、 ・後漢末での本籍任用例:7(刺史2、太守5) ・三国時代:3(刺史1、太守2) ・武帝時代の西晋:0 ・八王の乱以降の西晋:14(刺史2、太守12) なんだとか。 これ以上、丸写しにするのはさすがに良心がとがめますので、 この論文の総論等を知りたい方は実際に手を取ってみてください。 『史学雑誌』の1974年1・2号収録です。 最近はすっかりご無沙汰だったのですが、やっぱり制度関連の話は面白いですね。
30:★玉川雄一 2004/10/21(木) 00:14 わ、実際に調べた人がいるんだ。 白崎さんもよくぞ見つけて下さいました。 『史学雑誌』ですか。現役学生の頃だったら大学図書館で チョイチョイっと読めたんだろうになあ… ところでその論文には、任用例は名前まで判明しているんでしょうか。 それとも、おおもとの浜口氏の論考まで遡らないといけないのかしら…
31:★ぐっこ 2004/10/21(木) 00:32 お久しぶりです! そしてありがとうございます!白崎ゆきと様! うーん…やっぱり見つからないです、資料(^_^;) 当該の記述部分が その浜口重国先生のものと似ていましたから、出典は同じだったのかも。 なるほど、少なくともナンバー2までは本籍地を回避でしたか。 となると太守や県令なんてのは、本当に中央からの出向って立場が、想像以上に露骨 だったんですねえ…。執政のうえでは、現地採用の叩き上げor癒着型役人の協力が 必要不可欠だったでしょうから、思うほどの手腕を振るえなさそう。 それでもなお、赴任先で霊廟を建立されるくらいに慕われた名太守・名刺史が出る わけで、彼らの偉大さが余計に分かる気がします。あと、人事の感覚とか。 それにしても、史雑誌ですか…(^_^;) 中央図書館の閉架書庫にバックナンバー一式 あったような… と、またまた図書館通いケテーイ!
32:MM2 2004/10/21(木) 22:47 >白崎ゆきとさん 情報ありがとうございます。 私も図書館通って調べることにします。 実際に調べることで証拠としたということは、 はっきりと記載されている当時の書物がなかったんでしょうかね? 地方長官が本籍を避けるのは常識で、書くまでもない事だったのかも。
33:白崎ゆきと 2004/10/21(木) 23:52 手抜きで申し訳ないですが、確認などは一切ナシで論文の記述を抜き出します。 後漢末での本籍任用例:7(刺史2、太守5) ・キョウ(「龍」の下に「共」)楊 『華陽国志』 ・趙敏 『華陽国志』 ・孫嵩 ・公孫康 ・公孫度 ・樊敏 ・張既(雍州刺史・馮翊高陵の人 『三国志』巻15) 三国時代:3(刺史1、太守2) ・李勝(荊州刺史・南陽の人 『三国志』巻9曹爽伝) ・李恢(建寧太守・兪元の人 『三国志』巻43) ・范方(雁門太守・雁門の人 『晋書』巻91范隆伝) 八王の乱以降の西晋:14(刺史2、太守12) ・永昌郡不韋の人 呂凱の子である呂祥の子および孫が代々永昌太守 『三国志』巻43 ・劉殷(新興太守 『晋書』巻88) ・王遜(魏興太守 『晉書』巻81) ・鞠羨(東莱太守 『通鑑』巻86) ・鞠彭(東莱太守 『通鑑』巻91) ・劉隗(彭城内史 『晋書』巻69) 《これ以外の記載なし》 実は、この論文は以前に中村威也先生から教えて頂いたものなんですよ。 内容はもちろん、教えて頂いた経緯も印象深かったので すぐにコピーを持っていることを思い出しました。
34:★玉川雄一 2004/10/22(金) 00:53 うわあ、また迅速な情報提供を! リストアップされた人物を見ていると、 確かにああ、そういえば、という顔がチラホラ見えますね。 しかしこれ、膨大な人物の本籍と各自が歴任した地位を 把握していないと調べられんぞ… 例えば王遜や劉隗みたいに、それ以外にも色々な地位を 務めている人物などいちいち検証していかないといけないし。 もっとも統計というものはそういう地道な積み重ねが 必須になるわけだけれど。 ともあれ白崎さん、貴重な情報をありがとうございます。
35:★玉川雄一 2004/10/23(土) 18:52 ちなみに王遜ってこんな人。 王遜(?-323)、字は邵伯、魏興の人。 郡に仕えて孝廉に察せられて吏部令史となり、殿中将軍に転じ累遷して上洛太守となる。ついで魏興太守に転じる。 永嘉四年(310)、南夷校尉、寧州刺史として南中地方に赴く。 当時益州は既にテイ族の李雄に征服されており、寧州もその脅威にさらされていた。 着任した王遜は辣腕を振るい始めたのだが、刑罰を濫用して反対者を次々と粛清してゆく。 ともかくも武威による支配で寧州を平定し、 東晋元帝から散騎常侍、安南将軍、仮節を加えられ褒中県公に封じられた。 その後寧州の諸郡を分割して再編を行った。 蜀(成漢)の李雄とはしばしば交戦状態にあったが、323年には越スイ、漢嘉の二郡が李雄に降った。 さらに李雄の叔父の李驤が寧州に侵攻したが、王遜は将軍の姚崇(姚岳か)と爨琛(サンシン)を遣わす。 両軍は堂狼の地で激突したが晋軍が大勝し、姚崇は追撃戦を行ったが、 瀘水まで到達したところで追撃を停止した。 だが王遜はこれを不徹底として麾下の指揮官を捕らえ、姚崇を鞭打った。 髪が逆立ち冠を裂いたというほどの激しい怒り様だったが、 なんとその夜中に王遜は死去してしまったのだった。 王遜には普段より流血を厭わず、寧州の統治も度重なる粛清によって行われていた。 個人的にも嗜虐の性向が強かったようだが、それが昂じたあまりに憤死(?)するというのも凄まじい。 王遜の死後、子の王堅がその地位を嗣いだが、 陶侃は彼では成漢には対抗できないとして尹奉と交替させた。 王堅は建康に帰還して後に病死した。 その兄の王澄が爵位を嗣ぎ、魏興太守、散騎常侍を歴任した。 というわけで、王遜の子の王澄も本籍地に任官していました。 これはカウントに入っているのでしょうかね。
36:★玉川雄一 2004/10/27(水) 01:09 そういや、三国雑談スレの257でぐっこさんが 「上級の地方官吏あたりは、本籍地を避けて任命されるようですが」 って書いてるや。私たぶんこれとかが記憶に引っかかってたんだと思う。
37:むじん 2004/10/29(金) 21:20 どこかのスレで公孫度とか李恢に言及しました。 ぐっこさんの振りに答える形だったと思います。
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