下
後漢末・名士の関係
31:★ぐっこ 2004/10/21(木) 00:32 お久しぶりです! そしてありがとうございます!白崎ゆきと様! うーん…やっぱり見つからないです、資料(^_^;) 当該の記述部分が その浜口重国先生のものと似ていましたから、出典は同じだったのかも。 なるほど、少なくともナンバー2までは本籍地を回避でしたか。 となると太守や県令なんてのは、本当に中央からの出向って立場が、想像以上に露骨 だったんですねえ…。執政のうえでは、現地採用の叩き上げor癒着型役人の協力が 必要不可欠だったでしょうから、思うほどの手腕を振るえなさそう。 それでもなお、赴任先で霊廟を建立されるくらいに慕われた名太守・名刺史が出る わけで、彼らの偉大さが余計に分かる気がします。あと、人事の感覚とか。 それにしても、史雑誌ですか…(^_^;) 中央図書館の閉架書庫にバックナンバー一式 あったような… と、またまた図書館通いケテーイ!
32:MM2 2004/10/21(木) 22:47 >白崎ゆきとさん 情報ありがとうございます。 私も図書館通って調べることにします。 実際に調べることで証拠としたということは、 はっきりと記載されている当時の書物がなかったんでしょうかね? 地方長官が本籍を避けるのは常識で、書くまでもない事だったのかも。
33:白崎ゆきと 2004/10/21(木) 23:52 手抜きで申し訳ないですが、確認などは一切ナシで論文の記述を抜き出します。 後漢末での本籍任用例:7(刺史2、太守5) ・キョウ(「龍」の下に「共」)楊 『華陽国志』 ・趙敏 『華陽国志』 ・孫嵩 ・公孫康 ・公孫度 ・樊敏 ・張既(雍州刺史・馮翊高陵の人 『三国志』巻15) 三国時代:3(刺史1、太守2) ・李勝(荊州刺史・南陽の人 『三国志』巻9曹爽伝) ・李恢(建寧太守・兪元の人 『三国志』巻43) ・范方(雁門太守・雁門の人 『晋書』巻91范隆伝) 八王の乱以降の西晋:14(刺史2、太守12) ・永昌郡不韋の人 呂凱の子である呂祥の子および孫が代々永昌太守 『三国志』巻43 ・劉殷(新興太守 『晋書』巻88) ・王遜(魏興太守 『晉書』巻81) ・鞠羨(東莱太守 『通鑑』巻86) ・鞠彭(東莱太守 『通鑑』巻91) ・劉隗(彭城内史 『晋書』巻69) 《これ以外の記載なし》 実は、この論文は以前に中村威也先生から教えて頂いたものなんですよ。 内容はもちろん、教えて頂いた経緯も印象深かったので すぐにコピーを持っていることを思い出しました。
34:★玉川雄一 2004/10/22(金) 00:53 うわあ、また迅速な情報提供を! リストアップされた人物を見ていると、 確かにああ、そういえば、という顔がチラホラ見えますね。 しかしこれ、膨大な人物の本籍と各自が歴任した地位を 把握していないと調べられんぞ… 例えば王遜や劉隗みたいに、それ以外にも色々な地位を 務めている人物などいちいち検証していかないといけないし。 もっとも統計というものはそういう地道な積み重ねが 必須になるわけだけれど。 ともあれ白崎さん、貴重な情報をありがとうございます。
35:★玉川雄一 2004/10/23(土) 18:52 ちなみに王遜ってこんな人。 王遜(?-323)、字は邵伯、魏興の人。 郡に仕えて孝廉に察せられて吏部令史となり、殿中将軍に転じ累遷して上洛太守となる。ついで魏興太守に転じる。 永嘉四年(310)、南夷校尉、寧州刺史として南中地方に赴く。 当時益州は既にテイ族の李雄に征服されており、寧州もその脅威にさらされていた。 着任した王遜は辣腕を振るい始めたのだが、刑罰を濫用して反対者を次々と粛清してゆく。 ともかくも武威による支配で寧州を平定し、 東晋元帝から散騎常侍、安南将軍、仮節を加えられ褒中県公に封じられた。 その後寧州の諸郡を分割して再編を行った。 蜀(成漢)の李雄とはしばしば交戦状態にあったが、323年には越スイ、漢嘉の二郡が李雄に降った。 さらに李雄の叔父の李驤が寧州に侵攻したが、王遜は将軍の姚崇(姚岳か)と爨琛(サンシン)を遣わす。 両軍は堂狼の地で激突したが晋軍が大勝し、姚崇は追撃戦を行ったが、 瀘水まで到達したところで追撃を停止した。 だが王遜はこれを不徹底として麾下の指揮官を捕らえ、姚崇を鞭打った。 髪が逆立ち冠を裂いたというほどの激しい怒り様だったが、 なんとその夜中に王遜は死去してしまったのだった。 王遜には普段より流血を厭わず、寧州の統治も度重なる粛清によって行われていた。 個人的にも嗜虐の性向が強かったようだが、それが昂じたあまりに憤死(?)するというのも凄まじい。 王遜の死後、子の王堅がその地位を嗣いだが、 陶侃は彼では成漢には対抗できないとして尹奉と交替させた。 王堅は建康に帰還して後に病死した。 その兄の王澄が爵位を嗣ぎ、魏興太守、散騎常侍を歴任した。 というわけで、王遜の子の王澄も本籍地に任官していました。 これはカウントに入っているのでしょうかね。
36:★玉川雄一 2004/10/27(水) 01:09 そういや、三国雑談スレの257でぐっこさんが 「上級の地方官吏あたりは、本籍地を避けて任命されるようですが」 って書いてるや。私たぶんこれとかが記憶に引っかかってたんだと思う。
37:むじん 2004/10/29(金) 21:20 どこかのスレで公孫度とか李恢に言及しました。 ぐっこさんの振りに答える形だったと思います。
38:★玉川雄一 2004/11/27(土) 15:33 山川の『中国史2 三国→唐』にも記述がありました。 「州郡官の任用については、漢代、長官にその州郡県出身者を任じない原則があったが、 魏以後には出身地の州郡県の長官となる例がはなはだ多い」(p.39) “原則”として任じなかったというとそれに関する規定が 明文化されていたのかそうでなかったのか微妙なところですね。 そして魏以後にはそれが覆された例が“はなはだ多い”というのも気になる表現ではあります。
39:白崎ゆきと 2004/11/28(日) 16:19 先日、窪添慶文先生の論文に引かれていた、 浜口重国『漢代に於ける地方官の任用と本籍地との関係』を読んできました。 ■ 玉川さん > “原則”として任じなかったというとそれに関する規定が > 明文化されていたのかそうでなかったのか微妙なところですね。 行政機構のなかでこのようなルールを守っていくためには、 どう考えても何らかの形で公布し周知徹底させなければならなかったと思います。 特にこの本籍地回避のルールは武帝のある時期までは行われていなかったことが判明していますから、ある時に詔勅などが出されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。 また、山川『中国史2』が「原則」としたのは、浜口先生の論文に 「元来、後漢時代に太守や丞になった人の伝は後漢書を始め相当多く残っており、 これに碑文のものなどを加えれば、資料に不足しないのである。 それにも拘わらず、後漢一代を通じて本郡任の太守や丞の実例が指摘し得られないとすれば、 たとえ資料に現れる除外例の地や特別な場合が有ったにしても、 一般的には本郡任を回避するのが原則となっていたと断定して誤りないであろう。」 とあるからだと思われます。 ここで原則という表現にとどめているのは、 唐では高宗の時に雍州と洛州の2州に限って本州任を許した事例をもとに、 漢代においても同様の便法が存在しなかったとは断言できないとも論じているからです。 これは本当にすばらしい慧眼だと感服しました。 蛇足になりますが、個人的にはいわゆる羈縻政策との絡みで、 辺境での本籍地任はあったんじゃないかと想像してしまいます。 > そして魏以後にはそれが覆された例が“はなはだ多い”というのも気になる表現ではあります。 以前にも引用した窪添先生の論文によると、 「魏晋南北朝時代においては、本籍任長官の数は極めて多くなるのである。 筆者の調べたところでは約五百例を知り得る。 かつそれはこの時代ほぼ全般にわたっている。」 ──以下、愚痴 これだけ論文を丸写ししておいて言うのもなんですけど、 諸先生の論をしたり顔で紹介するのは、本当に恥ずかしいことなのでやっていて嫌になります。 学術論文が適正な対価によって、容易に読めるようになってほしいものです。
40:feary 2011/10/11(火) 00:18:44 ID:2RM4sqUi0 [sonin@yahoo.co.jp] こうなったら最後まで突っ走ってみろ。暴走か逆走かしらねぇけど。(;・ω・)。 mbtu.net/Anime/TV/m
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
後漢末・名士の関係 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1035905195/l50