後漢末・名士の関係
39:白崎ゆきと2004/11/28(日) 16:19AAS
先日、窪添慶文先生の論文に引かれていた、
浜口重国『漢代に於ける地方官の任用と本籍地との関係』を読んできました。

■ 玉川さん
> “原則”として任じなかったというとそれに関する規定が
> 明文化されていたのかそうでなかったのか微妙なところですね。

行政機構のなかでこのようなルールを守っていくためには、
どう考えても何らかの形で公布し周知徹底させなければならなかったと思います。
特にこの本籍地回避のルールは武帝のある時期までは行われていなかったことが判明していますから、ある時に詔勅などが出されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

また、山川『中国史2』が「原則」としたのは、浜口先生の論文に
「元来、後漢時代に太守や丞になった人の伝は後漢書を始め相当多く残っており、
 これに碑文のものなどを加えれば、資料に不足しないのである。
 それにも拘わらず、後漢一代を通じて本郡任の太守や丞の実例が指摘し得られないとすれば、
 たとえ資料に現れる除外例の地や特別な場合が有ったにしても、
 一般的には本郡任を回避するのが原則となっていたと断定して誤りないであろう。」
とあるからだと思われます。

ここで原則という表現にとどめているのは、
唐では高宗の時に雍州と洛州の2州に限って本州任を許した事例をもとに、
漢代においても同様の便法が存在しなかったとは断言できないとも論じているからです。
これは本当にすばらしい慧眼だと感服しました。

蛇足になりますが、個人的にはいわゆる羈縻政策との絡みで、
辺境での本籍地任はあったんじゃないかと想像してしまいます。

> そして魏以後にはそれが覆された例が“はなはだ多い”というのも気になる表現ではあります。

以前にも引用した窪添先生の論文によると、
「魏晋南北朝時代においては、本籍任長官の数は極めて多くなるのである。
 筆者の調べたところでは約五百例を知り得る。
 かつそれはこの時代ほぼ全般にわたっている。」


──以下、愚痴
これだけ論文を丸写ししておいて言うのもなんですけど、
諸先生の論をしたり顔で紹介するのは、本当に恥ずかしいことなのでやっていて嫌になります。
学術論文が適正な対価によって、容易に読めるようになってほしいものです。
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