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【三人いる!?】預章太守は誰だ!?
4: 2002/10/30(水) 00:34 黒竜 2001年10月22日月曜日 22時33分 この三人って任命元がそれぞれ違うんじゃないでしょうか。 華[音欠]→朝廷(馬日テイ) 朱晧→朝廷(長安) 諸葛玄→劉表(袁術?)という感じで… 馬日テイが徐州に赴いたというのが陶謙を徐州牧・栗陽侯に封じるため と仮定すると193年。 ほぼ同時期、朱晧の親父の朱儁が長安政権に帰参して太尉録尚書事に任命されてます。 懐柔のために息子を取り立てるのは充分ありうると思います。 あるいは華キンのそれは周術の死による臨時の任命で正式なものではなかったのではないでしょうか。 後漢書にも馬日テイの足どりがはっきり書かれてないので(馬融伝にも名前しか…泣)想像の域を出ませんが…
5: 2002/10/30(水) 00:34 玉川雄一 2001年10月22日月曜日 22時39分 私はソースが三国志しかありませんのでお力添えできないのが恐縮ですが… 朱晧って朱儁の子供だったんですか! 初めて知りました。 後漢書辺りに載っているのでしょうか…
6: 2002/10/30(水) 00:34 孫ぽこ 2001年10月23日火曜日 00時43分 w( ̄o ̄)w オオー!大御所の皆様ありがとうございます。 なるほどねー。やはり中央の混乱により朝廷の指名した朱晧と馬日テイの指名した華[音欠]が重なったとみてよいのかもしれませんね。 となると華[音欠]が豫章にいたと言っても実権はほとんどなかったという太史慈の報告を考えても、華[音欠]が実際に赴任したのは指名よりかなり後、実は朱晧がサク融に殺されてから・・とみていいかもですね。 そうなると劉[月缶系]は丹楊を孫策に追われてからかなり長い間豫章で勢力を保っていたのでしょうか? うーん^^;このあたりよくわかりませんね^^;
7: 2002/10/30(水) 00:35 ぐっこ 2001年10月24日水曜日 01時17分 「黒竜様、アドバイスありがとうございます〜! 私も玉川様と同じく、朱儁と朱晧の関係を知りませんでした…。 というわけで朱儁伝を見てみると、おお、最後の方に「子の晧、亦た才行有り。官豫章太守に至る」と一行だけ記述が! ううむ! 全く気づきませんでした! 「資料は持ってるだけじゃダメ」の良いお手本です(;^_^A 劉ヨウは、仮にも揚州の牧ですから、それなりの勢力を保ったまま闘争した様子。華キンも「私は劉牧殿に豫章太守を任され…」と述懐してますから、いちおう勢力が及ぶ範囲内では君主だったようですね〜。 豫章、それも郡治の南昌県に関しては、最後まで領有してたのでしょう。
8: 2002/10/30(水) 00:35 MOS 2001年10月26日金曜日 15時11分 ちょっと興味深い人物を発見。。 朱儁は会稽郡上虞県が本籍の人物(孫堅伝参照)ですが、孫亮の時代に朱育という人物がいたそうです(虞翻伝参照)。そして、彼も会稽郡の出身です。ただし、朱育は上虞県の隣の山陰県なのですが(^^ゞ この場合って、同族である可能性ってあるんでしょうかねぇ?? 呉郡の朱子とは別であるのは分かるのですが。。。 ちなみに、朱育は朱儁の事を『朱公』と呼んでいたようです。
9: 2002/10/30(水) 00:36 ぐっこ 2001年10月26日金曜日 21時53分 なんと!? 朱育!? というわけで調査。…なるほどお、会稽山陰の出身で、学者肌の人物だった様子。人を巧みに評する事で有名だが、その人物評の中には「朱公(朱儁)は神の如き武勇を持ち…」という具合に朱儁をきわめて高く評価している、と…。 確かに、地理的に言っても、朱儁と関係ある人物かも。朱儁伝見るかぎり、彼も相当の苦労をして這い上がってますし、「同郷同族の英雄」という目で見られていたんでしょうね〜。
10:姉さん 2011/10/26(水) 13:16:46 ID:PmtJjtiT0 [age@yahoo.co.jp] そこは・・・だめです〜・・・しゅれりあ・・・さまのそう・・・いうところが・・・すき●´Д`●ω hemn.me/tube8.html
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