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【三人いる!?】預章太守は誰だ!?
2:2002/10/30(水) 00:32AAS
ぐっこ 2001年10月20日土曜日 01時38分
お、大御所なんてとんでもないです!とくに呉については素人同然です…。
というわけで、勉強がてら調べてみることに。
う〜〜〜〜ん!!!
た、確かに重なってますよね…。
うーーーーん。とりあえず、華[音欠]の太守の時期ですが…。
読めば読むほど矛盾点が出てくる出てくる(;^_^A
ええと、先に言いますけど、はっきりと結論は出ませんでした!だから、解ったことだけ以下に書きますよ〜!
■彼が太守に任命されたパターン。
「馬日テイ(朝廷)説」……華[音欠]伝
「劉ヨウ説」…………………同註・江表伝
■太史慈伝では、豫章太守華キンが、死んだ劉ヨウの息子を手元に引き取り、孫策を迎え入れるかどうか悩んでいる、という記述が。華キン伝にある、「劉ヨウの死後、彼の軍民たちが華キンを慕い、君主に仰ぎたがった。だが彼はそれを断った」というのが、ちょうどそのあたりかもしれません。
■太史慈は、これから間もなく孫策の命を受けてハ陽・豫章・廬陵を偵察。この記述から、いちおう華キンの勢力はこの三郡に及んでいたと思われますが、実情としては
「華キンはなるほど立派な名士だが、廬陵は勝手に独立し、ハ陽は民衆達が華キンの任命した役人を追い出している。そしてすぐ近くの海昏でさえ彼に従わない」
…とあります。
まあ、とりあえず華キンは豫章の郡治・南昌にいたことは間違いなさそうです(海昏の隣だから)。
で、この太史慈の報告を受けて、孫策は豫章接収を決意。最終的には虞翻を使者にして華キンを降伏させてます。
■諸葛亮伝を見てみますと、やっぱり諸葛玄は南昌に赴任。その後朱晧、サク融も南昌に太守として君臨。サク融を斃した劉ヨウも、おそらくは南昌に滞在。
その劉ヨウの息子を、同じ南昌城で華キンが引き取り、太守として孫策と対峙。
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