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袁譚ってどうよ?
1: 2002/10/30(水) 00:39 ぐっこ 袁譚ってどうなんです? いや、いきなりなんですか(;^_^A なんかこう、郭氏とかの伝見てて思ったのですが、蒼天航路みたいないいヤツだったような…。 それよりも、袁尚のほうが事跡が少なくて、どんなヤツだったのか…。 ご意見お待ちしております(;^_^A
2: 2002/10/30(水) 00:39 MOS 2001年10月30日火曜日 04時48分 オイラは、袁譚にはあまり良いイメージは無いッスねぇ。。 ちゃんと袁尚へ権力譲渡されてたら、袁家はもっと長生きした筈とすら思っているんで。(^^ゞ 袁譚のイメージは『長男』振り翳してブチ壊したようなカンジです(笑) 原因の一つは、やはり袁熙です。 彼が弟の袁尚に従っている以上、袁譚の人格的魅力は「?」と思ってしまいますね。(^^; 単純な解釈ですが、如何なものでしょうか?
3: 2002/10/30(水) 00:40 おばら 2001年10月30日火曜日 05時03分 ごぶさたしています。 袁譚ですか。劉表からの書簡にしょんぼりする彼、けっこう好きですねぇ。『典論』にも恵み深い人柄であると書かれていて、袁氏の血を受け継ぐ人物だったんじゃないですかね。批判は避けておきます。 PS 久しぶりに『三国志』呉書の呉範劉惇趙達伝を読んでいると、張超(字は子並)なる人物が。もしや・・・と思い『後漢書』を調べてみると・・・、やはりいました!文苑列伝の禰衡伝の一つ前に、張超がっ! なんとこの人物、前漢劉邦の謀臣だった留侯張良の子孫とのこと。張不疑・張辟彊で張家が潰れてたんじゃなかったのか〜。 張超さんは車騎将軍朱儁に従って黄巾をやっつけにでて、別部司馬になったとのこと。その一生で、いっぱい本を書き、草書も絶妙だったそうな。 後漢書と三国志が繋がると、何かと嬉しい漢文初心者おばらでした〜。 (別スレ立てるべきだったか・・・)
4: 2002/10/30(水) 00:40 ぐっこ 2001年10月31日水曜日 00時41分 >MOS様 なるほどお……。確かに袁煕が兄ではなく弟についたのは、気になるところですね〜。 ただし敢えて反駁するとすれば、それは父の遺命に従ったということ。袁煕自身の事跡は、それこそ袁尚以上に少なく、その個性がまったく伺えません。周囲の言うことをよく聞くだけのお坊ちゃんだったのかも…。 ですが、父の遺言に逆らって袁家の地盤を揺さぶり、長男であるという自尊心だけで行動した袁譚は、確かに誉められたもんじゃないですねえ〜。彼が真の仁者だったら、弟の履を舐めるという屈辱に耐えたのでしょうけど…。 >おばら様 彼のキャラクターと行動が、かなり矛盾してるんですよねえ…。彼一個の人格だけ見れば、生真面目で誠実な、まずまず好感の持てる人物だったようですけど…。ただし行政官としての才幹はゼロ。国を荒らし、集めた人材も立ち枯れ。とても君主の器ではなかった様子ですね〜(優れたブレーンが付けられてなかったのかもしれませんが…)。 父が敢えて篤実な長子を選ばず、弟を立てたのも、上の事情を考慮してでしょうか。まさか袁紹程の男が「容貌が優れているだけ」で世継ぎにするわけもないし…。 おお、そして意外な子孫情報! 張超! …一瞬張バクの弟かと思いました(;^_^A 張良の子孫ですか〜! 三国志では一官吏としか書かれてませんでしたが…後漢書では伝まで! どうやら学者さんだったようですね〜。ううむ!後漢書読み直し!
5: 2002/10/30(水) 00:40 MOS 2001年10月31日水曜日 23時52分 ⇒おばらさん いやはや、張超は張良の子孫でしたか! 曹参の子孫と張良の子孫、曹参の子孫と「我が子房」と呼ばれた男。 ・・・なんとも面白いですなぁ♪(笑) ⇒ぐっこさん >張超 いや、臧洪伝と照らし合わせて考えれば、 広陵太守であった張超(張バクの兄)と趙達伝での「広陵・・・書に優れた」張子並は同一人物ではないでしょうか?? 明言してないんで、確証は全く無いんですが。。(^^ゞ >袁譚 仁者でない、というのも確かにあるのですが、 それ以上に、オイラは彼の姑息さが感じ取ってしまうんです。。(^^; 例えば、曹操と一時的に(近い将来に破棄する事を前提とした)同盟しようとした事はその代表的な事ですし、 また、車騎将軍を自称したのも解せません。父の後を継ぐなら大将軍を名乗る筈ですし、 形式的に祖父の後を継ぐなら(失念しましたが)三公の位を自称しても良い筈。 祖先を立てるのであれば、父の後釜として『大将軍司馬』などが妥当。 『車騎将軍』という非常に曖昧な将軍位は、彼の野心の高さと曹操に対する遠慮が窺い知れます。 さらに、沮授の言う「士人を敬愛し・・・彼らは盛り場で追いはぎや泥棒を働き、 場外では田野を荒らしまわる始末。・・・賄賂を使った者は見逃し、使わなかった者は徴兵された」は、 『父は子に似、下は上に似る』と表す事が出来ると思います。
6: 2002/10/30(水) 00:41 黒竜 2001年11月01日木曜日 01時15分 MOSさんから厳しい意見のでたところで、 ちょっと袁譚の弁護にまわってみたいと思います。 袁家の内紛の原因は袁譚や袁尚にはなく、やはり袁紹の失策でしょう。 「息子一人に一州を治めさせたい」正史にもある言葉ですが思考が完全に周の封建まで遡ってます。仮に官渡で勝利し天下を得たとしても後継者争いは起こったでしょう。 譚と尚が争うまいとしても周囲が承知しなかったはずです(実際側近達、かなり仲悪そう)。 煕の行動も尚に付いたとはいえ主体性は感じられません。譚が逃げてくればやはり助けたような印象をもちます。 煕と尚の上下関係も曖昧ですし… それと車騎将軍の号ですが、反董連合を起こしたさい袁紹の称号にならったものと思われます。父の晴やかなりし頃の号を称するのはさほど不自然ではないでしょう(大将軍は袁尚が継いだんでしょうか?調査不足です…)。 あと張超はやはり二人いるようで、張良の子孫は河間出身です。 ちくまの索引、ゴッチャになってますね。
7: 2002/10/30(水) 00:43 MOS 2001年11月01日木曜日 01時50分 >ちくまの索引 あ、やっぱりゴッチャだったんですか。 ほとんど同じ時期に同姓同名の人物がいるとわ、ハタ迷惑な(笑)
8: 2002/10/30(水) 00:43 ぐっこ 2001年11月01日木曜日 21時43分 あ、なるほど、本当にちくまの索引交ざってる(;^_^A いちおう徳間の辞典のほうは分けてますね〜。 張バクの弟の方、どんな人間だったのやら…。 そして袁譚談。賛否両論が出ましたね〜♪ やっぱり両論を通して見ないと意見が偏るところ…。 MOS様の仰るとおり、袁譚の戦略はセコイですね。弟を倒すために敵の手を借りるという発想が、彼の人物を小さくしてしまってるようです。まあこれは曹操も同様で、互いに利用し合う化かし合いですが…。 当時は「危ない綱渡り」なんでしょうけど、後世から見れば「自ら離間の計にハマった」状態。袁家全体で見れば、どう見てもマイナスにしかならない行動ですね〜。 しかしこれまた黒竜様の仰るとおり、彼ら兄弟の意思ではどうしようもない強大な力が、二人を割くべくして割いた状況かとも思えます。 袁譚は敵方である審配のどぎつい書状を読んでなお悔恨の涙を流したといいますが、郭図に「脅迫され」戦争を続けざるを得なかった、と…。審配と郭図、そんなに仲悪かったのか!(;^_^A ――あ、いまパラパラっとこのへん読んでたら、袁譚は袁紹ではなく袁基(袁術や袁紹の兄。袁隗とともに董卓に殺されてます)の祭祀を継いだ、とありますね〜。つまり形式上、袁譚は袁基の家系に養子に出された、ということ。そういえば袁紹自身、袁逢の家系から袁成の家系に移されたんでしたっけ…あまり関係ないか(;^_^A
9: 2002/10/30(水) 00:44 ぐっこ 2001年11月01日木曜日 21時44分 ところで、敢えて好悪だけで判断しますが、私は袁譚より袁尚の方がずっと嫌いです。実母に言われたからといって、自分の母にあたる袁紹の妻妾(の家族)を皆殺しにするという行動、これはダウトです! 才気煥発だけど性格悪い弟、温厚篤実だけど無能な兄。……構図としてはこんなに単純ではなかったでしょうけど、私はお兄ちゃんに同情票(;^_^A BSドラマご覧になってた方、覚えてらっしゃるでしょうか? 官渡で敗れた袁紹が、酒に溺れて讒者を近づけ、密告をじゃんじゃん奨励していたシーン。袁譚は父の堕落に心を痛め、袁紹に密告して褒美を貰っていた男を、闇夜に乗じて刺殺します。 なんだかこのシーン見てから、袁譚がいい人に思えてきて…(;^_^A
10: 2002/10/30(水) 00:44 おばら 2001年11月02日金曜日 02時57分 失礼しました。 ×劉表 ○審配 でしたね。混同しまくり^^;
11:sos 2011/11/03(木) 11:01:57 ID:D9rfIfR40 [pipi@yahoo.co.jp] 萌えるよな・・・俺は右がタイプだ。(人・ω・)ω hemn.me/twitter/
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