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刺史vs牧!
1:2002/11/01(金) 22:18
玉川雄一
刺史と牧。ここいらでちィとツッこんでみたり。
広漢和辞典を引いてみると、どちらも「州の長官、地方長官」とあるだけで、しかも同一の役が時代によって(ただし漢代のみ)名前を変えて用いられているという解説しかありませんでした。これではアテにならない…
松竹梅さんによれば、
>州刺史はあくまで州の監察官でしかなかったのに対し、州牧は軍権や行政権をもっていた
とのこと。
高島センセの記述っつぅのも「刺史<牧」ですよね。
「刺史は事実上州の行政長官になっていたが、名目上はあくまでも監察官」と。
魏(曹操の代から)には州刺史っていますけど州牧は見あたらないような気がします。結局、刺史が(行政)長官ということになっちゃったんでしょうか。あ、でも、孫権は219年に荊州牧になってますね。曹操の上表で。(呉主伝)
色々兼務してる人が多いので、どの役職がどこまで管轄しているのかよう分からんのですが… 刺史の地位にある人がどんな事やってたか、調べてみました。
魏の例をとれば、郭淮。この人は元々武官みたいですが…彼は鎮西長史と征羌護軍を兼務し、後に雍州刺史となっていますが、「郭淮は威光と恩特をもって羌族をなつけて帰順させ、家ごとに穀物を出させ、公平にその輸送の労務を割り当て」たとあるのは行政の範疇に入るような感もあります。
武官としてはその後建威将軍→揚武将軍→左将軍と進み、さらに「前将軍に転任したが、もとどおり州を宰領し」たとあります。244年には「夏侯玄が蜀を討伐すると、郭淮は諸軍を指揮して先鋒となっ」たそうです。(この後節を与えられる)
249(嘉平元)年、征西将軍・都督雍涼諸軍事に昇進しました。この時点で、雍州刺史は陳泰に引き継がれたようです(陳泰伝に、『嘉平の初め、郭淮にかわって雍州刺史となり』とあります)。こうなると郭淮は行政から離れたということでしょう。後に、持節・都督はそのままに車騎将軍・儀同三司となり、亡くなりました。
「将軍」は官職で「都督」というのは資格だから並んでていいんですね。これはしょっちゅう出てきますが。
ところが、賈逵や温恢などの伝を見ると、刺史として行政、軍事に携わっているように読みとれません?
温恢は揚州刺史となりましたが、曹操は「卿(温恢)を側近く置きたいと強く思うのだが、考えてみればこの州(揚州)の政治の重大さには比べられぬ(だから刺史に任命する)」と述べており、また合肥に駐屯している張遼・楽進には「揚州の刺史は軍事に通達している。一緒に相談して行動せよ」と言ったとあります。このニュアンスだと温恢と張遼らの間に上下関係があった訳ではないように感じられますが、温恢自身も軍事に関わったとみられます。
また、予州刺史の賈逵も「外は軍隊を整え、内は民政につとめ」とあり、刺史も一地方の長としての権を有していたのではないでしょうか。賈逵は後に将軍位も兼ねますが、これはそれ以前にある記述です。
つくづく、三国志に志(職官志)がないのが辛いですねえ。ちなみに、晋書の職官志を見たんですが、わかったようなわからないような… 少なくとも、刺史だけで牧はありません。
「州には刺史、別賀、治中従事、諸曹従事らの員を置く」とあるんですが、刺史がそもそも何をするかまでは書いてないんですわ。
ダラダラと書いてきましたが、松竹梅さんのご意見に対しては、「刺史も(時代によっては?)軍・政の権を持つんではないか」と。
刺史と牧。高島センセの説では権限が違うってゆうし、ちくまの三国志に載ってる職官表だと俸禄が違うぐらいしか分からないし…どないやねん!
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