下
姓?氏?諱?字?
29:2002/11/01(金) 22:39
中根東竜 2002年01月18日金曜日 23時16分
みなさん、ご指摘&ご意見、ありがとうございます。
色々前のレスでは不十分な点がありましたね(^^;)
>玉川さん
>ですけど、司馬道子、司馬徳宗・徳文兄弟の例は東晋末期ですよね。
その頃から、唐代のような風潮があったのでしょうか。
うーん、見落としてました<(_ _)>
実は、僕の前のレスには『中国歴史文化事典』(新潮社)という
種本があったのですが、そこの記述ではこういう風潮が流行したのは「中世」とありました。中世というと魏晋南北朝〜唐あたりを一般的に指しますので、唐に始まったことではないようです。訂正します。
>それに、もし仮に「混血による分化の変容」が原因だとするとして、皇帝・皇族がそういったものを受け入れたりするのかな、と素人考えでは思ったのですが…
何か別の理由があったりはしませんかね。
・・確かに、混血云々は理由としては弱いですね。
ただ、東晋〜南北朝期には文化はかなり変容していたことは事実です。『顏子家訓』には漢字ですら当て字が多数つくられていた
ことを嘆いている記述があります。混血以外の理由を考えてみます。
>ぐっこさん
>知りませんでした! モグリ決定ですか!?
三通を知っているのも使っているのも専門家ですんで、
一般の方は知らずとも大丈夫ですよ(^^;)
なお、三通のうち『通典』(この本が『三国志』関係の記述が一番
多そう)は中央研究院で見れますよ〜。師生版というところの
古籍の中にあります。
>興味のあるのは親族どうしの呼び名です。弟→兄は「兄上」でいいとして、兄・従兄が弟分を呼ぶとき、どう呼んだんでしょう…? あと、母→息子、とか、姉→弟、とか。
基本的に字は敬称という性格を持っているので、目下の者を
呼ぶときには名前で呼ぶのだと思うのですが・・。
母→息子であれば名前でしょう。姉から弟は
いまいちわかりません・・そういう史料を見たことがないんで・・
>馬超の「字は孟起。年の頃は十七」というのは、史学的にオッケーなんでしょうか?」
僕も史料批判を専門的に学んだことがないので憶測ですが、
『三国志演義』はこういう風俗に関しては概していい加減な
ようです。あんまり証拠としてはふさわしいモノとは思えません。
>黒竜さん
>ちなみに母→子なら王凌伝の注の単固の話のなかに死刑の決まった息子を母が字で呼んで話しかけてます。話の流れから考えると普段は名前、
改まったとき(敬意を示すとき)は字で呼びかけるんじゃないでしょうか。」
うーん、そうかも知れませんね。しかし子供を字で呼ぶ例が
あるとは・・勉強不足を痛感しますね。
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