下
姓?氏?諱?字?
16: 2002/11/01(金) 22:35 ぐっこ 2002年01月14日月曜日 23時24分 うーん、いちおう後漢代の教育制度見てたら、「幼童」と呼ばれる小学生が、13歳まで。 以降は個人的に師について学問し、一経を諳んじるまで教わる、と。後漢代の名門のおぼっちゃまは、この頃に字をつけたのかなあ、とも思います。ちなみにこのときの師というのは、父に次いで終生尊敬すべき存在であったらしいです。惇兄ィがキれたのもこの頃ですよね〜。 はれて中等教育を卒業すると、次は塾へゆくか、太学へゆくか、と。このときの塾が、いわゆる門生故吏とかの「師・門生」という関係を生む大事なものらしいです。袁家は代々家学の易経を教える塾を開いていたらしいですから、この時に教えた生徒たちが、後に官界に出て次の袁家を助け、さらに袁家の権勢がふくれあがってゆく、という仕組みだったようで…。当時は、何が何でも学問だったみたいですね〜。 話がそれた(¨;) 字…。以前、田中芳樹先生がぶち切れてましたね〜。先生の作品の中で字をもった少年が登場するんですが、読者の中に「字は二十すぎてから付けるんだろが!礼記くらい読めボケ」とお手紙を頂いたとか…。田中先生は対談で一言、「史料の棒読みはやめましょう」と。確かに、二十の前に字を持ってる連中はいくらでもいますもんね…。 松竹梅様、左平(仮名)様、NOBさまが仰るように、孔明に関しては、別離のとき、あるいは別離の後につけたっぽいです…。 小字……うっ(;^_^A 募集。
17: 2002/11/01(金) 22:36 黒竜 2002年01月15日火曜日 13時16分 また「姓氏考」からの引用ですが、 小字は一般的には動物(十二支など)や花などからとられたようです。 ただ正式な名前ではなく、あくまで気ままな呼び名なので厳密な形式はなかったともあります。 ちなみに玄宗李隆基も幼いころは阿瞞と呼ばれていたそうです。 この本によると、学校にあがると正式な「学名」をつけて以後、小字は用いなくなるようです。 三国時代に当てはめるとぐっこさんの仰るとおり、師について学問をはじめたときといったところでしょうか…
18: 2002/11/01(金) 22:36 ぐっこ 2002年01月15日火曜日 20時13分 黒竜様、情報感謝です〜! 小字、はニックネームみたいなモノですか〜。そういえば、「幼名」とは同じなんでしょうか…。 たしか幼名は、子供っぽく愛らしいモノか、正反対に魔除けとしてろくでもない名前を付けるか、どちらかと聞いたことはありますが…。 あ!さらに便乗質問! スレとはあんまし関係ないんですが(;^_^A 後漢代の「皇后」と「皇太后」の尊称って何でしょう? 殿下? 陛下?
19: 2002/11/01(金) 22:36 黒竜 2002年01月15日火曜日 20時44分 さっそく調べました(二日も寝てるとエネルギーがあまります)。 曹髦が殺された直後の群臣の上奏に「皇太后殿下」とありますから 皇太后に関しては殿下で間違いないようです。 おそらく皇后も同じと思われます。
20: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月15日火曜日 13時16分 また「姓氏考」からの引用ですが、 小字は一般的には動物(十二支など)や花などからとられたようです。 ただ正式な名前ではなく、あくまで気ままな呼び名なので厳密な形式はなかったともあります。 ちなみに玄宗李隆基も幼いころは阿瞞と呼ばれていたそうです。 この本によると、学校にあがると正式な「学名」をつけて以後、小字は用いなくなるようです。 三国時代に当てはめるとぐっこさんの仰るとおり、師について学問をはじめたときといったところでしょうか…
21: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月15日火曜日 23時14分 失礼しました、勢いがありすぎて調査不足でした。 皇太后が陛下と呼ばれている例も見つかりました。 ひとつは霍光による昌邑王廃立の際の皇太后への上奏。 今ひとつは、班昭による搗セ后への上疏。 一方は皇帝不在。もう一方は幼帝のための皇太后臨朝。 前者は魏のケースと被りますが尊称が異なる……… なにやら他にも有りそうな気配なのでもう少し探してみます。
22: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月16日水曜日 19時39分 いろいろ調べましたが、やはり上記三つが代表的な例のようです。 他には見当たりませんでした… 気になるのは、なぜほぼ同じ状況、立場にあった上官太后と郭太后が 「陛下」「殿下」と呼びわけられたのか? というわけで、そこから推測されること 推測@ケース・バイ・ケース 北魏の話になりますが、胡太后の伝に彼女が自分を「朕」と称し臣下には「陛下」と呼ばせていたとの記述があるようなので、やはりどの尊称を選ぶかはその人(呼ぶ人)しだいかも。 推測A漢魏革命における皇太后(皇后)の権力低下 後漢が皇后=外戚勢力の禍によって衰退したことから魏が皇太后の権力を制限したんじゃないかという勝手な憶測。 推測B皇太后が居た場所 劉賀廃立に先がけて上官太后が未央宮に入っており、郭太后の方は事変後も自分の宮殿から動いたという記事がないので 未央宮に入る=皇帝代理=陛下 皇太后府=殿下 ・・・どれもイマイチ真実味が薄い…。 後漢に限定すれば搗セ后のように陛下で問題ないのかな??? というわけでエネルギーは有りましたが肝心の知識が足りませんでした。面目ない…
23: 2002/11/01(金) 22:37 ぐっこ 2002年01月16日水曜日 23時09分 ぅお! 黒竜様、早速の調査ありがとうございます! なるほど! 上疏文がありましたか…! 結果は…割れますか…(;^_^A 皇太后はコレ! 皇后はコレ! という厳密な規定は存在してなかったんですね〜。 黒竜様の三つの推理、どれも正しそう…(;^_^A 皇太后の在宮によって呼称が代わるという説が、マニアックで心地よいです! 日本では皇后陛下、皇太后殿下、でしたっけ…。
24: 2002/11/01(金) 22:38 中根東竜 2002年01月17日木曜日 08時32分 どうも、お久しぶりです。 >ぐっこさん >制度史とか風俗史、日本ではあまり専門書がないから、論文とか詩歌から読み取ってゆくしかないのが残念です…。中国だとそういうのはいっぱい…無いか(;^_^A 文革挟んでますし…。 いやあ、そんなことはないんですよね、 専門書はあるんですよ。まあ、 参考のために書目をあげると・・・ 制度史では、 『通典』・『通志』・『文献通考』(いわゆる三通)あたりは 有名で、これを知らない専門家はモグリでしょう・・ また、風俗史では、 『荊楚歳時記』・『斉民要術』あたりかな。 書かれたのは三国時代とは少しずれて南北朝時代ですが、どんな暮らしをしていたかが良く分かります。『斉民要術』の方は歴史読本で 随分前に紹介されていたのでご存じかも知れません。 ちなみに『斉民要術』(農業書)の著者・賈思キョウは 魏将・賈逵の子孫に当たります。どうも賈逵の家ではこういう 農業技術を家学にしていたようですね。 ・・というわけで、本はないわけではないのですよ。 >惇兄ィの「おい孟徳」はオッケーなのか(;^_^A。 孔明の「玄・徳・様?」はセーフなのか…。 まんがの蒼天航路の話ですか? ・・実際の三国時代でそんなことをいったら大変ですね。 二人とも斬殺されるでしょう(^^;) 主君を字で呼ぶのは無礼ですからね。今で言うと会社の上役に ため口をきくようなものです。同輩と見なしているっつーことになる。 >NOBさん >少なくともうちのサイトは「あるサイト」に含まれていそうですね(爆) そーです、そーです。逸聞三国志の名を無断で出しては いかんかなぁ、と思ったもんで・・ ちと回りくどくなりましたね。すいません。 >玉川さん >字は自分で付けるにしろ他人に付けて貰うにしろ、後付けで付けるんですよね。その時、敢えて諱と同じ字を付けたっちゅうのはどないなものなんでありましょう。 これはですね、唐あたりでは字がいい加減になってきまして、 名と字がごっちゃになる現象が多くあるためです。 (「字をもっておこなわる」という) 郭子儀のケースなんかは、本人にしてみれば、 「俺は武人っすから、字なんか 関係ないっす!普段名前で呼んでるんすからそれでいいっしょ?」 とかいう感じではないかと。 こういうのは、原理原則にこだわりすぎると、多様な現実に 足下をすくわれます。おそらく騎馬民族との混血が進んで 文化が変容したことにより、規則がゆるんだのでしょう。 >左平(仮名)さん 宮城谷氏の定義で問題ないです。昨日、確認のためにその小説を 買いましたが、流石に良く書かれていました。 もうこの本を読めば僕が長広舌をふるわずとも 問題はありません。実は、最近の歴史小説は字にかんしては 嘘を書いているものばかりですが、(陳舜臣氏からして 誤っているので、田中芳樹氏をはじめとし殆どの作家が陳氏の孫引きをしている現状ではどうしようもない) 宮城谷さんはまともですね。安心しました。
25: 2002/11/01(金) 22:38 玉川雄一 2002年01月17日木曜日 17時48分 とりあえず、私にレスして下さった分だけですけど。 >名と字がごっちゃ なるほど、唐代にはそのような風潮があったのですね。 すると、他にも例が見られるのでしょうか。郭子儀はあくまでも一例? ですけど、司馬道子、司馬徳宗・徳文兄弟の例は東晋末期ですよね。 その頃から、唐代のような風潮があったのでしょうか。 それに、もし仮に「混血による分化の変容」が原因だとするとして、皇帝・皇族がそういったものを受け入れたりするのかな、と素人考えでは思ったのですが… 何か別の理由があったりはしませんかね。 東晋末と唐代の例に繋がりはあるのか、その間の南北朝時代ではどうだったのか、などと興味は尽きません。
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