下
姓?氏?諱?字?
21: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月15日火曜日 23時14分 失礼しました、勢いがありすぎて調査不足でした。 皇太后が陛下と呼ばれている例も見つかりました。 ひとつは霍光による昌邑王廃立の際の皇太后への上奏。 今ひとつは、班昭による搗セ后への上疏。 一方は皇帝不在。もう一方は幼帝のための皇太后臨朝。 前者は魏のケースと被りますが尊称が異なる……… なにやら他にも有りそうな気配なのでもう少し探してみます。
22: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月16日水曜日 19時39分 いろいろ調べましたが、やはり上記三つが代表的な例のようです。 他には見当たりませんでした… 気になるのは、なぜほぼ同じ状況、立場にあった上官太后と郭太后が 「陛下」「殿下」と呼びわけられたのか? というわけで、そこから推測されること 推測@ケース・バイ・ケース 北魏の話になりますが、胡太后の伝に彼女が自分を「朕」と称し臣下には「陛下」と呼ばせていたとの記述があるようなので、やはりどの尊称を選ぶかはその人(呼ぶ人)しだいかも。 推測A漢魏革命における皇太后(皇后)の権力低下 後漢が皇后=外戚勢力の禍によって衰退したことから魏が皇太后の権力を制限したんじゃないかという勝手な憶測。 推測B皇太后が居た場所 劉賀廃立に先がけて上官太后が未央宮に入っており、郭太后の方は事変後も自分の宮殿から動いたという記事がないので 未央宮に入る=皇帝代理=陛下 皇太后府=殿下 ・・・どれもイマイチ真実味が薄い…。 後漢に限定すれば搗セ后のように陛下で問題ないのかな??? というわけでエネルギーは有りましたが肝心の知識が足りませんでした。面目ない…
23: 2002/11/01(金) 22:37 ぐっこ 2002年01月16日水曜日 23時09分 ぅお! 黒竜様、早速の調査ありがとうございます! なるほど! 上疏文がありましたか…! 結果は…割れますか…(;^_^A 皇太后はコレ! 皇后はコレ! という厳密な規定は存在してなかったんですね〜。 黒竜様の三つの推理、どれも正しそう…(;^_^A 皇太后の在宮によって呼称が代わるという説が、マニアックで心地よいです! 日本では皇后陛下、皇太后殿下、でしたっけ…。
24: 2002/11/01(金) 22:38 中根東竜 2002年01月17日木曜日 08時32分 どうも、お久しぶりです。 >ぐっこさん >制度史とか風俗史、日本ではあまり専門書がないから、論文とか詩歌から読み取ってゆくしかないのが残念です…。中国だとそういうのはいっぱい…無いか(;^_^A 文革挟んでますし…。 いやあ、そんなことはないんですよね、 専門書はあるんですよ。まあ、 参考のために書目をあげると・・・ 制度史では、 『通典』・『通志』・『文献通考』(いわゆる三通)あたりは 有名で、これを知らない専門家はモグリでしょう・・ また、風俗史では、 『荊楚歳時記』・『斉民要術』あたりかな。 書かれたのは三国時代とは少しずれて南北朝時代ですが、どんな暮らしをしていたかが良く分かります。『斉民要術』の方は歴史読本で 随分前に紹介されていたのでご存じかも知れません。 ちなみに『斉民要術』(農業書)の著者・賈思キョウは 魏将・賈逵の子孫に当たります。どうも賈逵の家ではこういう 農業技術を家学にしていたようですね。 ・・というわけで、本はないわけではないのですよ。 >惇兄ィの「おい孟徳」はオッケーなのか(;^_^A。 孔明の「玄・徳・様?」はセーフなのか…。 まんがの蒼天航路の話ですか? ・・実際の三国時代でそんなことをいったら大変ですね。 二人とも斬殺されるでしょう(^^;) 主君を字で呼ぶのは無礼ですからね。今で言うと会社の上役に ため口をきくようなものです。同輩と見なしているっつーことになる。 >NOBさん >少なくともうちのサイトは「あるサイト」に含まれていそうですね(爆) そーです、そーです。逸聞三国志の名を無断で出しては いかんかなぁ、と思ったもんで・・ ちと回りくどくなりましたね。すいません。 >玉川さん >字は自分で付けるにしろ他人に付けて貰うにしろ、後付けで付けるんですよね。その時、敢えて諱と同じ字を付けたっちゅうのはどないなものなんでありましょう。 これはですね、唐あたりでは字がいい加減になってきまして、 名と字がごっちゃになる現象が多くあるためです。 (「字をもっておこなわる」という) 郭子儀のケースなんかは、本人にしてみれば、 「俺は武人っすから、字なんか 関係ないっす!普段名前で呼んでるんすからそれでいいっしょ?」 とかいう感じではないかと。 こういうのは、原理原則にこだわりすぎると、多様な現実に 足下をすくわれます。おそらく騎馬民族との混血が進んで 文化が変容したことにより、規則がゆるんだのでしょう。 >左平(仮名)さん 宮城谷氏の定義で問題ないです。昨日、確認のためにその小説を 買いましたが、流石に良く書かれていました。 もうこの本を読めば僕が長広舌をふるわずとも 問題はありません。実は、最近の歴史小説は字にかんしては 嘘を書いているものばかりですが、(陳舜臣氏からして 誤っているので、田中芳樹氏をはじめとし殆どの作家が陳氏の孫引きをしている現状ではどうしようもない) 宮城谷さんはまともですね。安心しました。
25: 2002/11/01(金) 22:38 玉川雄一 2002年01月17日木曜日 17時48分 とりあえず、私にレスして下さった分だけですけど。 >名と字がごっちゃ なるほど、唐代にはそのような風潮があったのですね。 すると、他にも例が見られるのでしょうか。郭子儀はあくまでも一例? ですけど、司馬道子、司馬徳宗・徳文兄弟の例は東晋末期ですよね。 その頃から、唐代のような風潮があったのでしょうか。 それに、もし仮に「混血による分化の変容」が原因だとするとして、皇帝・皇族がそういったものを受け入れたりするのかな、と素人考えでは思ったのですが… 何か別の理由があったりはしませんかね。 東晋末と唐代の例に繋がりはあるのか、その間の南北朝時代ではどうだったのか、などと興味は尽きません。
26: 2002/11/01(金) 22:38 ぐっこ 2002年01月17日木曜日 20時22分 わ〜! 中根東竜さま、お久しぶりです〜! そして早速の情報ありがとうございまする! >三通 知りませんでした! モグリ決定ですか!? >字 斬殺ものですか!? まあ孔明のアレは漫画だからイイとして、興味のあるのは親族どうしの呼び名です。弟→兄は「兄上」でいいとして、兄・従兄が弟分を呼ぶとき、どう呼んだんでしょう…? あと、母→息子、とか、姉→弟、とか。 陳舜三国志とか呼んでましたら、かなり混乱しました…。 >多様な現実 ある時期ではかなりルーズだったんですね…(;^_^A。しかし玉川さまが仰るように、ボトムアップで式典が変わるというのも…。霊帝のように、やたら胡好きの君主が「俺らもやろうぜ」とか音頭とったとか…足下すくわれますか? >宮城谷作品 さしあたって三國志の進行が遅すぎです!(;^_^A もう文庫本に関しては買い漏らし無いはず…。ニセ三國志といえば、羅貫中はちゃんとしてるんでしょうか…。馬超の「字は孟起。年の頃は十七」というのは、史学的にオッケーなんでしょうか?
27: 2002/11/01(金) 22:39 黒竜 2002年01月17日木曜日 21時20分 >その間の南北朝時代ではどうだったのか 南北朝時代の王思政、崔彦穆、辛慶之、慕容紹宗 あと唐代の張嘉貞などが名と字が同じみたいです。 >興味のあるのは親族どうしの呼び名です 私も気になるのが一つ、光武帝紀に故郷に行幸した劉秀が一族のおばちゃん連中から「文叔が皇帝になるとは云々」といわれて笑ったという話がありますが、これって おばちゃん≧皇帝という関係なんでしょうか? それとも劉秀が持前の性格の良さで受け流してるんでしょうか? ちなみに母→子なら王凌伝の注の単固の話のなかに死刑の決まった息子を母が字で呼んで話しかけてます。話の流れから考えると普段は名前、 改まったとき(敬意を示すとき)は字で呼びかけるんじゃないでしょうか。
28: 2002/11/01(金) 22:39 黒竜 2002年01月17日木曜日 21時20分 >その間の南北朝時代ではどうだったのか 南北朝時代の王思政、崔彦穆、辛慶之、慕容紹宗 あと唐代の張嘉貞などが名と字が同じみたいです。 >興味のあるのは親族どうしの呼び名です 私も気になるのが一つ、光武帝紀に故郷に行幸した劉秀が一族のおばちゃん連中から「文叔が皇帝になるとは云々」といわれて笑ったという話がありますが、これって おばちゃん≧皇帝という関係なんでしょうか? それとも劉秀が持前の性格の良さで受け流してるんでしょうか? ちなみに母→子なら王凌伝の注の単固の話のなかに死刑の決まった息子を母が字で呼んで話しかけてます。話の流れから考えると普段は名前、 改まったとき(敬意を示すとき)は字で呼びかけるんじゃないでしょうか。
29: 2002/11/01(金) 22:39 中根東竜 2002年01月18日金曜日 23時16分 みなさん、ご指摘&ご意見、ありがとうございます。 色々前のレスでは不十分な点がありましたね(^^;) >玉川さん >ですけど、司馬道子、司馬徳宗・徳文兄弟の例は東晋末期ですよね。 その頃から、唐代のような風潮があったのでしょうか。 うーん、見落としてました<(_ _)> 実は、僕の前のレスには『中国歴史文化事典』(新潮社)という 種本があったのですが、そこの記述ではこういう風潮が流行したのは「中世」とありました。中世というと魏晋南北朝〜唐あたりを一般的に指しますので、唐に始まったことではないようです。訂正します。 >それに、もし仮に「混血による分化の変容」が原因だとするとして、皇帝・皇族がそういったものを受け入れたりするのかな、と素人考えでは思ったのですが… 何か別の理由があったりはしませんかね。 ・・確かに、混血云々は理由としては弱いですね。 ただ、東晋〜南北朝期には文化はかなり変容していたことは事実です。『顏子家訓』には漢字ですら当て字が多数つくられていた ことを嘆いている記述があります。混血以外の理由を考えてみます。 >ぐっこさん >知りませんでした! モグリ決定ですか!? 三通を知っているのも使っているのも専門家ですんで、 一般の方は知らずとも大丈夫ですよ(^^;) なお、三通のうち『通典』(この本が『三国志』関係の記述が一番 多そう)は中央研究院で見れますよ〜。師生版というところの 古籍の中にあります。 >興味のあるのは親族どうしの呼び名です。弟→兄は「兄上」でいいとして、兄・従兄が弟分を呼ぶとき、どう呼んだんでしょう…? あと、母→息子、とか、姉→弟、とか。 基本的に字は敬称という性格を持っているので、目下の者を 呼ぶときには名前で呼ぶのだと思うのですが・・。 母→息子であれば名前でしょう。姉から弟は いまいちわかりません・・そういう史料を見たことがないんで・・ >馬超の「字は孟起。年の頃は十七」というのは、史学的にオッケーなんでしょうか?」 僕も史料批判を専門的に学んだことがないので憶測ですが、 『三国志演義』はこういう風俗に関しては概していい加減な ようです。あんまり証拠としてはふさわしいモノとは思えません。 >黒竜さん >ちなみに母→子なら王凌伝の注の単固の話のなかに死刑の決まった息子を母が字で呼んで話しかけてます。話の流れから考えると普段は名前、 改まったとき(敬意を示すとき)は字で呼びかけるんじゃないでしょうか。」 うーん、そうかも知れませんね。しかし子供を字で呼ぶ例が あるとは・・勉強不足を痛感しますね。
30: 2002/11/01(金) 22:45 ぐっこ >中根東竜さま どうも〜! またまた情報ありがとうございます!『通典』ですね!? …見つからない…(T-T) かれこれ三十分ほど中央研究院のなかをウロついてるんですが、場所がわからない…師生版…? そうだ、ググルで通典・師生版を調べたら…おお、日本語の解説サイトがあるじゃないか、ラッキ〜♪ ……中根東竜様のサイトでした(;^_^A あらためて紹介のリンク先から人文資料庫師生版→選自(古籍一八種)→通典。 うーむ!! 深い! なんか隣には捜神記とか顔氏家訓集解とかあるし…(;^_^A 読みたいのが一杯だ〜! そもそも通典だけでも、礼やら兵やら食貨やらが! 勉強します!
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