下
姓?氏?諱?字?
14: 2002/11/01(金) 22:34 左平(仮名) 2002年01月14日月曜日 14時13分 >ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。 何の知識もありませんが、少しでも参考になるかと。 宮城谷昌光氏の『鳳凰の冠』(春秋時代・晋の賢者、叔向が主人公)の中に、「貴族の元服は二十歳であるが、王侯だけはきわめて早く、十二歳で戴冠する。」との記述があります。 また、『史記の風景』(『史記』に関連する様々なテ−マについてのエッセイ集)には、「(女性にとって)男の加冠の儀にあたるのは、十五歳の笄礼である」との記述があります。 と、いう事は…松竹梅さんがおっしゃる様に、士大夫の家系に生まれた諸葛亮の字が「孔明」になったのは、兄との離別後という事になります。 が、しかし、「字」には「家の外の人とのつきあいの中で用いる名」という意味あいがありますから、(家長である兄と離れ、単独で家の外の人とのつきあいを始めなければならなくなる)離別時に字をつけた、という可能性も高いのでは…。
15: 2002/11/01(金) 22:34 NOB 2002年01月14日月曜日 21時43分 > 漢字については、皇家や直系をさける程度のモノだったのでしょうか。 「部首が同じ」というくらいは気にしなかったのではないかと思いますが、「人と話すときには相手の父の名と同音の単語も言わないように気をつけていた」っていう話があったような…。 でも、玉川さんのおっしゃっている「諱と字が同じ例」なんかを見ますと、よく分からなくなりますね(笑) ついでに横レス失礼します。 > ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。 うろ覚えの怪しい記憶なのですが、「塾に通ったりとか、外との交流を持つようになったら」というのを聞いたことが…どこで誰に聞いたのか忘れてしまいましたが(爆) 曹沖は享年13歳ですが字を持っていたことを考えると、結構早く付けられることもあったのではないかと思います。 諸葛亮が諸葛瑾と別れたときにはもう10数歳だったと思われるので、タイミングとしては左平さん説の「兄と離別したとき」かなぁ、と個人的には思うのですが。 ん〜、でも隆中に居を構えたときにもまだ17歳だから、このときでも別におかしくないですよねぇ…。従父の保護下にいたときには、字を持たずにまだ小字を使っていた、のかもしれませんし(^-^; 便乗して質問なのですが、小字ってどんなふうにつけられたのでしょうか?何か決まりがあるとか…
16: 2002/11/01(金) 22:35 ぐっこ 2002年01月14日月曜日 23時24分 うーん、いちおう後漢代の教育制度見てたら、「幼童」と呼ばれる小学生が、13歳まで。 以降は個人的に師について学問し、一経を諳んじるまで教わる、と。後漢代の名門のおぼっちゃまは、この頃に字をつけたのかなあ、とも思います。ちなみにこのときの師というのは、父に次いで終生尊敬すべき存在であったらしいです。惇兄ィがキれたのもこの頃ですよね〜。 はれて中等教育を卒業すると、次は塾へゆくか、太学へゆくか、と。このときの塾が、いわゆる門生故吏とかの「師・門生」という関係を生む大事なものらしいです。袁家は代々家学の易経を教える塾を開いていたらしいですから、この時に教えた生徒たちが、後に官界に出て次の袁家を助け、さらに袁家の権勢がふくれあがってゆく、という仕組みだったようで…。当時は、何が何でも学問だったみたいですね〜。 話がそれた(¨;) 字…。以前、田中芳樹先生がぶち切れてましたね〜。先生の作品の中で字をもった少年が登場するんですが、読者の中に「字は二十すぎてから付けるんだろが!礼記くらい読めボケ」とお手紙を頂いたとか…。田中先生は対談で一言、「史料の棒読みはやめましょう」と。確かに、二十の前に字を持ってる連中はいくらでもいますもんね…。 松竹梅様、左平(仮名)様、NOBさまが仰るように、孔明に関しては、別離のとき、あるいは別離の後につけたっぽいです…。 小字……うっ(;^_^A 募集。
17: 2002/11/01(金) 22:36 黒竜 2002年01月15日火曜日 13時16分 また「姓氏考」からの引用ですが、 小字は一般的には動物(十二支など)や花などからとられたようです。 ただ正式な名前ではなく、あくまで気ままな呼び名なので厳密な形式はなかったともあります。 ちなみに玄宗李隆基も幼いころは阿瞞と呼ばれていたそうです。 この本によると、学校にあがると正式な「学名」をつけて以後、小字は用いなくなるようです。 三国時代に当てはめるとぐっこさんの仰るとおり、師について学問をはじめたときといったところでしょうか…
18: 2002/11/01(金) 22:36 ぐっこ 2002年01月15日火曜日 20時13分 黒竜様、情報感謝です〜! 小字、はニックネームみたいなモノですか〜。そういえば、「幼名」とは同じなんでしょうか…。 たしか幼名は、子供っぽく愛らしいモノか、正反対に魔除けとしてろくでもない名前を付けるか、どちらかと聞いたことはありますが…。 あ!さらに便乗質問! スレとはあんまし関係ないんですが(;^_^A 後漢代の「皇后」と「皇太后」の尊称って何でしょう? 殿下? 陛下?
19: 2002/11/01(金) 22:36 黒竜 2002年01月15日火曜日 20時44分 さっそく調べました(二日も寝てるとエネルギーがあまります)。 曹髦が殺された直後の群臣の上奏に「皇太后殿下」とありますから 皇太后に関しては殿下で間違いないようです。 おそらく皇后も同じと思われます。
20: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月15日火曜日 13時16分 また「姓氏考」からの引用ですが、 小字は一般的には動物(十二支など)や花などからとられたようです。 ただ正式な名前ではなく、あくまで気ままな呼び名なので厳密な形式はなかったともあります。 ちなみに玄宗李隆基も幼いころは阿瞞と呼ばれていたそうです。 この本によると、学校にあがると正式な「学名」をつけて以後、小字は用いなくなるようです。 三国時代に当てはめるとぐっこさんの仰るとおり、師について学問をはじめたときといったところでしょうか…
21: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月15日火曜日 23時14分 失礼しました、勢いがありすぎて調査不足でした。 皇太后が陛下と呼ばれている例も見つかりました。 ひとつは霍光による昌邑王廃立の際の皇太后への上奏。 今ひとつは、班昭による搗セ后への上疏。 一方は皇帝不在。もう一方は幼帝のための皇太后臨朝。 前者は魏のケースと被りますが尊称が異なる……… なにやら他にも有りそうな気配なのでもう少し探してみます。
22: 2002/11/01(金) 22:37 黒竜 2002年01月16日水曜日 19時39分 いろいろ調べましたが、やはり上記三つが代表的な例のようです。 他には見当たりませんでした… 気になるのは、なぜほぼ同じ状況、立場にあった上官太后と郭太后が 「陛下」「殿下」と呼びわけられたのか? というわけで、そこから推測されること 推測@ケース・バイ・ケース 北魏の話になりますが、胡太后の伝に彼女が自分を「朕」と称し臣下には「陛下」と呼ばせていたとの記述があるようなので、やはりどの尊称を選ぶかはその人(呼ぶ人)しだいかも。 推測A漢魏革命における皇太后(皇后)の権力低下 後漢が皇后=外戚勢力の禍によって衰退したことから魏が皇太后の権力を制限したんじゃないかという勝手な憶測。 推測B皇太后が居た場所 劉賀廃立に先がけて上官太后が未央宮に入っており、郭太后の方は事変後も自分の宮殿から動いたという記事がないので 未央宮に入る=皇帝代理=陛下 皇太后府=殿下 ・・・どれもイマイチ真実味が薄い…。 後漢に限定すれば搗セ后のように陛下で問題ないのかな??? というわけでエネルギーは有りましたが肝心の知識が足りませんでした。面目ない…
23: 2002/11/01(金) 22:37 ぐっこ 2002年01月16日水曜日 23時09分 ぅお! 黒竜様、早速の調査ありがとうございます! なるほど! 上疏文がありましたか…! 結果は…割れますか…(;^_^A 皇太后はコレ! 皇后はコレ! という厳密な規定は存在してなかったんですね〜。 黒竜様の三つの推理、どれも正しそう…(;^_^A 皇太后の在宮によって呼称が代わるという説が、マニアックで心地よいです! 日本では皇后陛下、皇太后殿下、でしたっけ…。
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