下
姓?氏?諱?字?
30: 2002/11/01(金) 22:45 ぐっこ >中根東竜さま どうも〜! またまた情報ありがとうございます!『通典』ですね!? …見つからない…(T-T) かれこれ三十分ほど中央研究院のなかをウロついてるんですが、場所がわからない…師生版…? そうだ、ググルで通典・師生版を調べたら…おお、日本語の解説サイトがあるじゃないか、ラッキ〜♪ ……中根東竜様のサイトでした(;^_^A あらためて紹介のリンク先から人文資料庫師生版→選自(古籍一八種)→通典。 うーむ!! 深い! なんか隣には捜神記とか顔氏家訓集解とかあるし…(;^_^A 読みたいのが一杯だ〜! そもそも通典だけでも、礼やら兵やら食貨やらが! 勉強します!
31: 2002/11/01(金) 22:47 ぐっこ 2002年01月19日土曜日 21時36分 案外、家族同士での呼び方って、資料が揃ってないものなんですねえ〜。 いまさらながら確認しますが、名前を呼んでよいのは君、父母・兄、族父あたり。 ということは孫策が孫権のことを「権よ」と呼び捨てにするのは正解? 袁譚が袁尚を「顕甫!」と字でののしるのは、かなり他人行儀? 分かってるようで、案外分かりづらい世界であります…。 孫策と周瑜が字を呼び合うというのも、礼に適ってるのか無礼なのか親愛の証なのか…。わからぬ! 引き続き情報きぼん! あと、何かの本でとばし読みしたんですけど、晋代の詩のなかに、 「最近は女が市場でベラベラしゃべって鬱陶しい。やたら顔を見せるな。女は女らしくすっこんでろ」 みたいな詩があったとおぼろげながら記憶してますが、後漢末くらいには、すでに女性が家から出て路地を練り歩き、ふつうに買い物とかしてたのでしょうか…?
32: 2002/11/01(金) 22:47 黒竜 2002年01月20日日曜日 00時27分 一応、三国志中の名と字に関する記述を自分の気づいた範囲で並べると @常林伝「子に向かって父の字を呼んだ人にどうして礼拝する必要がありましょう」 A高堂隆伝「下臣を前にして主君を名前で呼べば、道義では討ち果たすことに…」 B王脩伝[太祖は彼(脂習)を字で呼んでいった] Cトウ艾伝[十二歳のとき…陳寔に対する碑文を読んだが…そこで自分の名を範、字を士則と名乗った] Cって十二歳で字を名乗ったともとれますよね。憶えておいてあとでつけたのかもしれませんけど…
33: 2002/11/01(金) 22:48 ぐっこ 2002年01月20日日曜日 23時14分 黒竜さま、調査ありがとうございます! なるほど…確かにそういう記述があったような…。 不思議なのはこの@で、いったい子供の前で親をなんと呼べばいいんでしょう…? 「お父君はどこかな」くらいでよかったんでしょうか〜。 「字を呼ぶ」のは礼にかなってると思ってたんですが、この例を見て混乱した次第で…。 字の年齢についても諸説ふんぷんですよねえ…。曹沖については、死後につけたっぽいですけど。「士」でない人間はあとから自称する、とも聞きますけど、そもそも「士」とそうでない人の区切りって…。 「さらに追加質問でスマソですが、今上皇帝のお父さんとかお祖父さんって、どう呼ばれるんでしたっけ!?「先帝」ではなくて…。 「皇太后」みたいな感じで、なんか特別の読み方があったような…。
34: 2002/11/01(金) 22:48 玉川雄一 2002年01月24日木曜日 21時16分 黒龍さんに追加です。 司馬朗伝の冒頭に、彼が九歳の時に父の字(建公)を言った人に対して「他人の親を馬鹿にする者は自分の親を尊敬しない人です」と言い放ち、詫びを入れさせたそうですね。 …じゃあどうやって呼べばいいっちゅうねん!
35: 2002/11/01(金) 22:48 左平(仮名) 2002年01月24日木曜日 21時21分 今上帝の父が存命なら、日本の場合と同じで「上皇」で良いのでは…って、何の根拠もないですが。清の乾隆帝が、確か存命中に譲位していますから、彼がなんと呼ばれていたかが分かれば…。 あと、亡くなっている場合、「考」の字が付くはずです。確か。 「皇考」→死んだ父をまつるときの敬称(礼記・曲礼) →曽祖、曽祖父(礼記・王制) 「皇祖」→天子の祖父(尚書・五子之歌) →天子の始祖 以上、漢字字典から。
36: 2002/11/01(金) 22:48 japan 2002年01月24日木曜日 23時37分 ・父親の呼称 >いったい子供の前で親をなんと呼べばいいんでしょう…? >「お父君はどこかな」くらいでよかったんでしょうか〜。 『世説新語』方正編では、陳寔の友人が七歳の陳紀(陳寔の子)に向かって「尊君在りや不や(お父上はいらっしゃるかな)」と呼びかけているので、ぐっこ様の御推察の通りではないかと思います。 ・当時の風俗 >後漢末くらいには、すでに女性が家から出て路地を練り歩き、 >ふつうに買い物とかしてたのでしょうか…? 高島先生の「きらめく群像」によると、酒宴の席などで妻が夫以外の男性の目に触れるのは、今で言えば飲み会に奥さんが全裸で登場する位の暴挙だったとか。 少なくとも孫妹君や甄氏の如き高貴な女性は、人前に姿を現すことなどなかったのでしょう。 (「無双2」のエンディングには小一時間問い詰めたい…) 庶民の家庭の主婦はそんなこと言ってられないと思うのですが…史書を著すような方々は、下々の生活なんて気にも留めないだろうから、真相は藪の中です。
37: 2002/11/01(金) 22:48 むじん 2002年01月25日金曜日 00時08分 どもです〜。 >今上皇帝のお父さんとかお祖父さんって、どう呼ばれるんでしたっけ!? パパは「太皇帝」ですね。グランパはなんてったっけ? >高島先生の「きらめく群像」によると、酒宴の席などで妻が夫以外の男性の目に触れるのは、今で言えば飲み会に奥さんが全裸で登場する位の暴挙だったとか。 全裸はいいすぎでしょ〜、さすがに。でも結婚した女性が家族以外の男性の前に出ないのは、今のアフガンでも見られますね。 呂布は劉備と同盟したとき、妻を劉備に挨拶させていますね。呂布の気持ちとしては劉備と義兄弟の契りを結んだつもりだったらしいですが、劉備のほうは呂布のこの言動を見て、彼の人格に疑問を持ったようです。ま、劉備の関心を買おうと必死になってる呂布は「かわいい」とか思っちゃうんですけど♪
38: 2002/11/01(金) 22:50 黒竜 2002年01月25日金曜日 20時39分 >今上皇帝のお父さんとかお祖父さんって、どう呼ばれるんでしたっけ!?「先帝」ではなくて…。 左平さんの仰るとおり亡父は皇考、亡祖父は皇祖(皇祖考?)。でいいみたいです。 ただ参考は後漢書が主なので何とも言えませんが正式に帝位に即いた人は、あまりそのようには呼ばないような気も… あと先代がなくなって諡号や廟号をつけるまでの間は大行皇帝と呼ぶようです。 一方、皇帝が生きている父を呼ぶ場合は「太上皇」が主でしょうか… 司馬倫も恵帝を「太上皇」に祭り上げてるんで微妙ですが… ちなみに傍系から迎えられた皇帝が父(未即位)に諡号を贈る場合は「○○皇」で「○○皇帝」とはしないようです。 後漢はこの「○○皇」が非常に多いですが、魏では明帝紀太和三年の詔勅にあるように厳しく禁じられたみたいです。 曹髦も曹奐も律儀にこれを守ってますね。 …曹奐が即位したときって曹宇まだ生きてたんですね。今気づきました(^^)A
39: 2002/11/01(金) 22:51 ぐっこ 2002年01月25日金曜日 23時40分 わわ、たくさん情報ありがとうございます! >字 本当に、考えれば考えるほど深みに…。結局、これを使うのはいいわけ?どうして父親を字で呼んじゃダメなの?…とか。 そういえば異説のなかに、「劉備を字で呼んだためあやうく関羽・張飛に斬られるところだった馬超」というシチュエーションがありましたね…。事の是非はともかく、自他の君主を字で呼ぶのは固く禁じられていたようで…。じゃあ明公とかいう呼び方しかできなかったのだろうか…。 >皇帝のパパ 左平(仮名)様、むじん様、黒竜様、情報サンクスです! 亡父のばあいは皇孝、生きてる場合は太上皇…。あ、むじんさまの「太皇帝」、思い出しました! 曹嵩の諡号ですね! グランパ曹騰は、たしか高皇帝でしたっけ。こういう呼び方もあるのか…。 傍系の父…ああ、皇帝の子が必ず皇帝になる訳じゃないんですよね…。 王朝が滅びる直前なんか、まともな世襲なんてほとんど無いですね〜。なるほど、「皇」だけですか。 日本の皇室範典を探したんですが、皇后→皇太后→太皇太后くらいしか分からない…。 あ、日本では「天皇・太皇太后・皇太后・皇后ノ敬稱ハ陛下トス」らしいです。今発見(;^_^A >女性 これも考えると妙なんですよねえ…。基本的に当時の女性は家に閉じこもっているもの、と思ってましたが、少なくとも市井の女性は街に出て歩き回ってたはずでしよねえ…。簡雍のエピソードではカップルで歩いてたみたいだし。どうも当時の町の様子が想像しづらいです…。 呂布が劉備に妻を見せたのは、政治的アピールと言うより「見てみて〜マイワイフ♪」的アホウな発想があったような気も(;^_^A 個人的な要望ですが。
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