下
姓?氏?諱?字?
6: 2002/11/01(金) 22:30 japan 2002年01月10日木曜日 22時07分 >著者が刺史と牧の区別が付いてない 「欠」の字にあんなに拘りを見せる高島先生らしくないミスですね(笑)。 『きらめく群像=人物縦横談』は我が心のバイブルですが、兄弟問題だけでなく諸葛亮にはやけに辛口な気がします。 北伐に関する「そこらをぐるっとまわって云々」は魏のファンでも「おいおい」と思いました。 >玉川様 荀揩フ項の最後のくだり、 「英雄と賢者の感情の機微だ。後世にはわからぬこともある。」 って良いと思いませんか? あと、張昭の項は非常に笑えます。おすすめです。
7: 2002/11/01(金) 22:30 中根東竜 2002年01月11日金曜日 19時53分 >諸葛氏の血縁関係 この話題、実は以前にあるサイトでも論議されていたのですが、 その時の結論は「この説は高島氏の勇み足だろう」ということでしたね。この説は根拠不足といえるでしょうね。 まあ既に黒竜さんがいわれてますけど、 >名前と字だけで「兄弟じゃない」 っていう考え方がそもそもおかしいように思えてならないです。 名の付け方とか、字のきまりというのは一つの原則に過ぎないわけでして、こういうのは儒教の礼で規定されているわけですが、 「礼は形式ではなく本質を尊ぶ」と、『論語』にはあるんですね。 だから、原則と違う名・字はいっぱいあります。 なんで、こういう時に名や字は根拠としては使えないのです。 >著者が刺史と牧の区別が付いてない 高島氏は、文学系の方なのでこういう制度史には弱いのでしょう。
8: 2002/11/01(金) 22:31 ぐっこ 2002年01月11日金曜日 21時08分 >japanさま おおっ!? 心のバイブルですか!? 私も買おうかな〜。でも最近ネットとかDTPの入門書とかで1万円以上本代で消えてるし…。しばらくは立ち読みかも…。 荀揩フ擁護文とか、なかなか辛辣でしたね〜。基本的に「アンチ」と「信者」の抗争を苦々しく眺めている、というスタンスに共感を覚えました…が、はっきりとアンチ諸葛でいらっしゃる…。孔明、あれはあれなりに凄い人物だと思うけど…。 >中根東竜さま ありがとうございます。高島センセの勇み足説が強いですか〜。 そりゃあ名前の法則(?)だけで親兄弟の判別はできませんか…(;^_^A こういう史書と真っ向から対立する異説をみると、真っ先に飛びつきたくなるクチでして(;^_^A 三顧の礼の異説(孔明が劉備を訪れたというアレです)を初めて知ったときとか、得意げに触れ回ったモノです…。いまでは定説のほうを信用するようにしてますが…。 制度史とか風俗史、日本ではあまり専門書がないから、論文とか詩歌から読み取ってゆくしかないのが残念です…。中国だとそういうのはいっぱい…無いんでしょうか(;^_^A 文革挟んでますし…。
9: 2002/11/01(金) 22:32 玉川雄一 2002年01月11日金曜日 21時46分 うい、「きらめく群像」、全部読みました。 なかなか鋭い切り口とノリがいいのが楽しめたんですが、しばしば「???」なこともありましたね。 顧雍の「まあお父さん大臣だったの!」はツボでした。 で、その…こんな事を申し上げるのは恥ずかしいのですが、結局「刺史と牧の区別が〜」っていうのはどういうことなんでしょう。私も結局分かってないんです(-_-;) 劉焉のあたりに記述がありましたが… それと、諱を避けるお話。東晋の謝安は字を安石といい、またその弟の謝石の字は石奴だったとか。こういう風に二重三重にカブっているというのはいかがなものかと。 それどころか、諱と字が全く同じ人とか出てきますよね。東晋ラスト二代の皇帝、司馬徳操、徳文兄弟、彼等の叔父の会稽王司馬道子。唐代の将軍郭子儀も同様に。 字は自分で付けるにしろ他人に付けて貰うにしろ、後付けで付けるんですよね。その時、敢えて諱と同じ字を付けたっちゅうのはどないなものなんでありましょう。
10: 2002/11/01(金) 22:33 玉川雄一 2002年01月11日金曜日 21時49分 >司馬徳操 イカン、これぢゃ酔狂先生でした。司馬徳宗でございます。
11: 2002/11/01(金) 22:33 NOB 2002年01月12日土曜日 00時21分 情報量0の書き込みですみません。 > >諸葛氏の血縁関係 > この話題、実は以前にあるサイトでも論議されていたのですが、 > その時の結論は「この説は高島氏の勇み足だろう」ということでした> ね。この説は根拠不足といえるでしょうね。 少なくともうちのサイトは「あるサイト」に含まれていそうですね(爆) あの時は、反例として袁滂-袁渙の父子の例も挙げられていました。 …すみません、それだけなんです…。
12: 2002/11/01(金) 22:33 ぐっこ 2002年01月14日月曜日 01時26分 >玉川様 字と名前が同じ! 字の意味ないじゃん状態ですね〜! 諱をさけるための字なのに…。 結局、どんな本を読んでもぴんとこないんですが、「字を呼ぶ」のは、礼にかなってるんでしょうか? 無礼なんでしょうか? ほら、子供の前で父親の字を呼ぶのは非礼だ、というエピソードもありますし。ふつうは官職で呼ぶんでしょうけど…。 惇兄ィの「おい孟徳」はオッケーなのか(;^_^A。 孔明の「玄・徳・様?」はセーフなのか…。 >NOBさま おお、濃ゆい話題の掲示板があるものだと思ってたら、そちらでしたか(;^_^A そうか、陳袁家のほうもサンズイ繋がりがありましたか〜。 どうも探せば出てくるようで…。 漢字については、皇家や直系をさける程度のモノだったのでしょうか。
13: 2002/11/01(金) 22:34 松竹梅 2002年01月14日月曜日 03時06分 ずいぶん久しぶりです。 新年の挨拶もしてないんで、とりあえず明けましておめでとうございます(爆) 兄弟で中途半端に名前の偏を統一するケースもありました。 劉焉の息子四兄弟 (多分)長男が範、次男が誕、 (あと二人はほぼ確定で)三男が瑁、四男が璋 やっぱり名前の偏だけで兄弟関係を推測するのは難しい気がしますね。 >州刺史と州牧の違い 州刺史はあくまで州の監察官でしかなかったのに対し、州牧は軍権や行政権をもっていたと思います。官品はどちらも五品だったと思いますが、給料は600石と2000石です。 >字の礼儀 夏侯惇は曹操の古くからの友人的存在だから大丈夫そうですが、諸葛亮があんなこといったら…ま、薄れ行く意識の中で「劉・豫・州・様?」とかいってたらそれはそれで変ですが。 ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。場合によっては、181年生まれの諸葛亮は、あるいは諸葛瑾との離別後に字を決めた可能性がありますし。
14: 2002/11/01(金) 22:34 左平(仮名) 2002年01月14日月曜日 14時13分 >ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。 何の知識もありませんが、少しでも参考になるかと。 宮城谷昌光氏の『鳳凰の冠』(春秋時代・晋の賢者、叔向が主人公)の中に、「貴族の元服は二十歳であるが、王侯だけはきわめて早く、十二歳で戴冠する。」との記述があります。 また、『史記の風景』(『史記』に関連する様々なテ−マについてのエッセイ集)には、「(女性にとって)男の加冠の儀にあたるのは、十五歳の笄礼である」との記述があります。 と、いう事は…松竹梅さんがおっしゃる様に、士大夫の家系に生まれた諸葛亮の字が「孔明」になったのは、兄との離別後という事になります。 が、しかし、「字」には「家の外の人とのつきあいの中で用いる名」という意味あいがありますから、(家長である兄と離れ、単独で家の外の人とのつきあいを始めなければならなくなる)離別時に字をつけた、という可能性も高いのでは…。
15: 2002/11/01(金) 22:34 NOB 2002年01月14日月曜日 21時43分 > 漢字については、皇家や直系をさける程度のモノだったのでしょうか。 「部首が同じ」というくらいは気にしなかったのではないかと思いますが、「人と話すときには相手の父の名と同音の単語も言わないように気をつけていた」っていう話があったような…。 でも、玉川さんのおっしゃっている「諱と字が同じ例」なんかを見ますと、よく分からなくなりますね(笑) ついでに横レス失礼します。 > ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。 うろ覚えの怪しい記憶なのですが、「塾に通ったりとか、外との交流を持つようになったら」というのを聞いたことが…どこで誰に聞いたのか忘れてしまいましたが(爆) 曹沖は享年13歳ですが字を持っていたことを考えると、結構早く付けられることもあったのではないかと思います。 諸葛亮が諸葛瑾と別れたときにはもう10数歳だったと思われるので、タイミングとしては左平さん説の「兄と離別したとき」かなぁ、と個人的には思うのですが。 ん〜、でも隆中に居を構えたときにもまだ17歳だから、このときでも別におかしくないですよねぇ…。従父の保護下にいたときには、字を持たずにまだ小字を使っていた、のかもしれませんし(^-^; 便乗して質問なのですが、小字ってどんなふうにつけられたのでしょうか?何か決まりがあるとか…
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