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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
9: 2002/11/02(土) 12:52 玉川雄一 2002年03月14日木曜日 18時06分 おおう! またも調査不足が露呈してしまった(-_-;) 「強制移住」についても注目しなければならなかったのですね。援護射撃ありがとうございます。やはり聞いてみるものだ。 こうして調べてみると、どうも温恢の刺史就任は相当ズレ込みますねえ。劉馥死後からこの間、中継ぎの揚州刺史はいたのでしょうか? この激戦区、それなりの担当官を充てる必要があったと思うのですが… そして曹操、東奔西走。やはり根っからの軍略家なのですね。
10: 2002/11/02(土) 12:53 もす 2002年03月15日金曜日 00時49分 いやいや、オイラの方が明らかに頻繁にツッコまれてますんで・・・(笑) 正直、一人が知る事の出来る情報量、ってそう多くないですよね。これこそ、掲示板の良さっすね♪ また、前回のカキコで書かなかったのですが、上が正しいためには二つの条件が必要なんですが・・・ 1.2つの『移住計画』の記述が同じ事実を述べている、という仮定を満たす。 2.『初』の日本語訳が、オイラの訳で合っている事。 自分自身、少々疑念は隠せないのですが・・・玉川さん、 >中継ぎ オイラも、おそらく「居た」と思います(^^) 延べ6年はただでさえ長いですから、やはり「居た」でしょう♪ ところで、ふと疑問に思ったのですが、東呉戦線で刺史の名前が挙がる時、揚州、豫州、エン州などの刺史は多く挙がると思うんですが、、、徐州の刺史って全然名前を聞かない気がするんですが、如何でしょう?(^^ゞ 孫策時代に孫作配下の部将(孫権?)が陳登にあしらわれた時も、広陵太守でしたし・・・ 徐州って、そんなに価値が低かったのでしょうか? それとも名前が挙がらないだけでしょうか?(^^;
11: 2002/11/02(土) 12:53 岡本 2002年03月15日金曜日 19時26分 どうも、初カキコさせていただきます。岡本です。 >徐州刺吏 官渡関連を調べようと魏志、蜀志を斜め読みしていましたら、菫昭伝で、”車冑を殺した劉備を徐州から放逐した後、菫昭が徐州刺吏となり、白馬の戦いで魏郡太守として参戦した”という記述があったように思います(手元に無いのであやふやですが)。 太守は実戦経験豊かな将軍、刺吏は文官であること(シビリアンコントロールの他に士太夫階級からなる地方豪族対策の意味が大きいでしょう)がほとんどですので、刺吏は有能な文官が交代で切り盛りしていたと思いますが。 徐州の価値自体は非常に重要だったと思いますよ。ただ、(呉ファンの人には悪いですが)呉には周瑜の死後、対外侵攻戦争で勝てる将軍がいなくなってしまったため(陸遜も防衛戦が主体)、揚州の合肥に陣取った尋常じゃなく強いヤツ=張遼を破って徐州まで侵攻することが実質不可能になっただけではないかと思います。
12: 2002/11/02(土) 12:53 むじん 2002年03月16日土曜日 00時03分 こういうときこそ中央研究院さま頼みですよっ♪ どれどれちっくと検索してみちゃろかね…。 出ました出ました。董昭伝に徐州刺史になったとの記載。でもすぐに辞めちゃってますね。他に何ヶ所か徐州刺史の文字がありますが、ほとんどが車冑がらみ。どうも車冑・董昭以降は記録がないようです。 で、裴注の部分に(誰だっけ。李勝にからんでたと思いますが)、徐州刺史になった人物のことが載ってました。ところがこの人、徐州の軍事都督と役所の奪い合いをしたとか。 どうやら徐州軍事都督が徐州刺史を兼務していたんじゃなかろーかと、それで後の世に刺史が復活したとき都督と対立したんじゃなかろーかと、思われるのでありまするっ。
13: 2002/11/02(土) 12:53 ぐっこ 2002年03月16日土曜日 00時12分 うぉ、いきなり「刺史奮迅」、アツい議論が! うーむ、さしあたって温恢の就任時期、やはりもす様が仰るとおり、214年っぽいですね〜。ちょうど劉備が蜀入りしてるころか…。 でも、なるほど中継ぎが…。曹操のことだから、抜かりなく適材を放り込んでるところでしょうが…意外な人物の列伝に、こっそり書いてあったりして…正史はこれが面白い! 徐州刺史…そういえば(;^_^A まあ岡本様の仰るように、揚州の防衛戦が突破されない以上、徐州が戦場になることはないでしょうし…。曹操が虐殺して回った結果、人口とか文化とかどうなってたんでしょうね〜。
14: 2002/11/02(土) 12:54 玉川雄一 2002年03月16日土曜日 00時45分 盛り上がってまいりました! 皆様ご協力ありがとうございます。 さて、むじんさんのご指摘があった「徐州刺史」とは、鄭岐のことですね。 曹爽伝の桓範の所で登場します。桓範が使時節都督青、徐(州)諸軍事となったとき、「徐州刺史の鄭岐と家を争い、節をひきよせ、鄭岐を斬ろうとしたが、鄭岐の上奏によって、非は桓範の方にあるということで免職され帰郷した」とある部分ですね。 ですから、この場合は刺史と都督は別、と。晋代には兼任した人けっこう見ますけど、魏の頃はどうなんでしょう。 ところで、この後桓範はエン州刺史になりました。李勝の荊州⇔并州?は有名ですね。彼は刺史に任命されたものの、赴任しない内にあぼーんされてしまったようです。 さて、続きを調べないと。
15: 2002/11/02(土) 12:54 ぐっこ 2002年03月17日日曜日 16時15分 不肖ぐっこ、刺史奮迅の一員として、とりあえず旧刺史関連スレageときました〜。 いつ見ても刺史というのは妙な役割ですよね…。軍権があるのかないのか、そもそも文官なのか武官なのか。 あ、いきなり話逸らしてアレですけど――蜀や呉にも制度上刺史が置かれてたと思いますが、益州しか領土のない蜀にとっての「益州刺史」や、逆に「涼州刺史」とかの役職。単純に名誉職と言ってしまえばそうですが、普段何してたんでしょうね(^-^;
16: 2002/11/02(土) 12:54 玉川雄一 2002年03月17日日曜日 21時23分 あー、魏書第16の杜恕伝にて、彼が刺史について長広舌をふるっております。 なんでも、「刺史は軍事に携わるのをやめて民政に専念させろや」という趣旨らしいです。いわく、 「州や郡の長官たちは皆ともに人民をいたわる方策をないがしろに、し軍隊指揮の事をならい、農業養蚕の民も戦争のわざをきそっておりまして、根本(農業)に従事しているとは申せません」 また、それより以前に以下のような主張をしたようです。 「州や郡が兵を扱うと、戦功に専心して民政につとめないから、別に指揮官を置いて、[長官には]政治の任務を十分に果たさせるべきだ」 ですがこれは容れられなかったようです。 ちなみに、荊・揚・青・徐・幽・并・雍・涼の諸州は兵を持っているそうです。残りのエン・予・司・冀州だってゼロてんでもないのでしょうけどね。 ところで杜恕自身も幽州刺史に任ぜられました。しかも、建威将軍使持節護烏丸校尉も兼任ったらもう軍事もやれ! ってなものですわね。どうするのかと思ったら、程喜に弾劾されて免官になってしまいました。 杜恕については、もすさんのサイトで紹介されていたかと。 山川の中国史2によれば以下の通り。 「地方行政は州・郡・県三級の行政区画が基本であった。州には長官である刺史、その副官である別賀従事、文書を扱う治中従事・主簿、人事担当の功曹、管下の軍権を観察する部従事などがあった。」 「なお刺史は多くの場合将軍号をおび(将軍号のないものを単車刺史とよんだ)、その将軍号によって軍隊をひきい、かつ将軍に付属する府の属官が軍事を担当し、いっぽう、民政は刺史の属官である別賀従事以下の州官が担当するという区別があった。」 「ただし、刺史の持つ将軍号はしだいに名目的なものとなり、かわって軍事を担当する「都督」の役割が増加した」だそうです。 杜恕の主張は、このような形式に対して実状を訴えたものだったのでしょうかね。
17: 2002/11/02(土) 12:54 ぐっこ 2002年03月18日月曜日 23時41分 うわ〜! 玉様、詳報ありがとうございます〜! なるほど〜、刺史が軍を率いたのは、刺史の軍権ではなく、付随された将軍号に拠るものだったんですね〜! で、どうしても政治が疎かになるから、代わりに都督職ができると…。 むう! これまでの疑問が氷解したですよ!
18: 2002/11/02(土) 12:56 玉川雄一 ■もすさんの提唱された「徐州刺史おらへんの?」 いました。しかも! 臧覇。 呂虔。 臧覇はおそらく202年〜204年の間に任命されたようです。 【臧覇伝】 「夏侯淵とともに黄巾の残党徐和らを討伐し、功績があって徐州の刺史に昇進した」 【夏侯淵伝】 「済南郡と楽安郡の黄巾賊徐和・司馬倶らが城を攻撃し、県の高官を殺害した。夏侯淵は泰山・斉、平原各郡の軍兵を率いてこれを攻撃し、さんざんにうち破って徐和を斬り殺し、諸県を平定し、その食糧を没収して兵士に給付した」 そして年代の絞り込みは… 【楽進伝】 「黎陽における袁譚、袁尚攻撃に参加し、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった(202年)。別軍として黄巾の賊を攻撃し、それをうち破り楽安郡を平定した。ギョウの包囲(204)に参加し〜」とあるので、討伐はこの期間に行われたことに。その後、臧覇は徐州刺史になりました。 おそらく曹操の代は臧覇が務めたようにも思えますが… 続いて【呂虔伝】 「文帝は王位につくと、(呂虔に)裨将軍の位を加え、益寿亭侯にとりたて、徐州の刺史に昇進させ、威虜将軍の称号を加えた」 なんか二回将軍位を与えられておるのですが、一続きの処置じゃないのかもしれませぬ。 呂虔がいつまでこの地位を務めたか定かではありませんが、王祥を招いて別賀とし、民政は彼に一切委ねたそうです。「世間ではそのよく賢者にまかせたことに感心した」とか。 青・徐方面で軍功著しい彼らを刺史に据えたということは、やはり徐州も重要視されていたのではないでしょうか。
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