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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
11: 2002/11/02(土) 12:53 岡本 2002年03月15日金曜日 19時26分 どうも、初カキコさせていただきます。岡本です。 >徐州刺吏 官渡関連を調べようと魏志、蜀志を斜め読みしていましたら、菫昭伝で、”車冑を殺した劉備を徐州から放逐した後、菫昭が徐州刺吏となり、白馬の戦いで魏郡太守として参戦した”という記述があったように思います(手元に無いのであやふやですが)。 太守は実戦経験豊かな将軍、刺吏は文官であること(シビリアンコントロールの他に士太夫階級からなる地方豪族対策の意味が大きいでしょう)がほとんどですので、刺吏は有能な文官が交代で切り盛りしていたと思いますが。 徐州の価値自体は非常に重要だったと思いますよ。ただ、(呉ファンの人には悪いですが)呉には周瑜の死後、対外侵攻戦争で勝てる将軍がいなくなってしまったため(陸遜も防衛戦が主体)、揚州の合肥に陣取った尋常じゃなく強いヤツ=張遼を破って徐州まで侵攻することが実質不可能になっただけではないかと思います。
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