下
卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
39:岡本2004/05/01(土) 12:19
後、蒋済の丹陽太守就任時期は212年1月以降という状況証拠としては
陳蘭、梅成、雷緒らの討伐がいつ行われたかにあるかと思います。
長江北岸の住民強制移住と、揚州北部・徐州南部で有力な豪族である彼らの討伐
は無関係ではないと考えられますので。
住民強制移住案自体は、赤壁ショックと直後の孫権の合肥侵攻(例の周喩とは2方面作戦になったもの)
に対して曹操が反応したものでしょう。
省18
40:通りすがり2004/05/02(日) 15:07
ふと思ったのですが、『後濟使詣鄴,太祖迎見大笑曰:「本但欲使避賊,乃更驅盡之.」』
は後日談で、丹陽太守を拝命したのは209年の言焦での会見の時、と考えてもいいのでは?
41:★ぐっこ2004/05/03(月) 20:33
あー、ここのところ腑抜けてて頭の中が三国志脳になってない(^_^;)
ちと状況を整理しないとだめですね。
>>7-10を読み直してみる
……
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省12
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