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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
1: 2002/11/02(土) 12:36 玉川雄一 私、思ったですよ。近頃蒼天航路でブレイクしつつある劉馥、温恢たち。 彼らは、もっと知られるべきではないか? しかるべき評価を受けるべきではないか? 知ったか君としてはそのお役に立つべきではないか? というワケで、彼らの支援組織を作ってみようかと思いまして。 対象は、魏書第15の6人を初めとして、第26の4人など、 (主に)刺史として名を残した味好漢ども。その他もエントリー可能。 そんな彼らをリスペクトする組織の名は… 「刺史奮迅」 …ってもすさんのサイトのパチモンやんけ! でも、語呂いいしなあ。許可頂けないかネゴシエーションしてみよっと。 さしあたっての目標は、コー@ー三國志と蒼天航路に巻15の6人 (劉馥、司馬朗、梁習、張既、温恢、賈逵)を全員登場させること! ってもどんな活動をすればいいのやら。 コー@ーに直訴状とか、ゴンタ先生に血判状送ってもなあ… 前者の場合、新武将登録は必須条件。 まあものすごい勢いでマターリ行くとします。
32: 2002/11/02(土) 13:22 玉川雄一 2002年04月01日月曜日 11時18分 あちらの表では、温恢の任期がちょっと疑問。←どうしてもそこに目が行くヤシ もすさんの調査結果のように、就任は214年辺りまで下りそうですし、219年の時点でも揚州刺史の任にありました。おそらく、曹丕即位までは在任したかと思われ。 うむ、やはり自分の目で確かめねばのう。因果な趣味を持ったものだ(^_^;)
33: 2002/11/02(土) 13:23 ぐっこ 2002年04月01日月曜日 22時03分 >玉様 おお、温恢を試験薬にするという手が! なるほど、解釈の仕様によって、変わってくるところも出てくるわけで…。これは義兄上流の刺史奮迅一覧の出現に期待!? …あ、でももす様と同じく、ムリはなさらないように〜。
34: 2002/11/02(土) 13:23 クェン 2002年04月01日月曜日 23時51分 はあ…久しぶりに来たらおもいっきりビックリした…。 心臓に悪いっすよ、ぐっこさん。 それにしても時代は刺史!渋すぎ!! そういえば孫堅パパは予州刺史の座を巡って周[日禺]と喧嘩したらしいけど、そんなに予州刺史って魅力的なんでしょうか。三国志家頁さんの表を見るなんかここが特に争い激しそう…。
35: 2002/11/02(土) 13:24 ぐっこ 2002年04月03日水曜日 00時05分 うわはは〜。ほんのジョークでございました(;^_^A それはそうと、刺史! うーん…堅パパが豫州刺史を争ったのは、あくまでも袁紹VS袁術の代理戦争だったかもしれないですね〜。孫堅の豫州刺史任命は袁術の独断だったみたいですし…。 この場合の豫州争奪戦は、汝南一帯を巡ってのものだったんでしょうか。
36: 2002/11/02(土) 13:24 川雄一 2002年04月08日月曜日 20時57分 こちらでコーナーができたのに言い出しっぺのアタシが何もナシじゃ アレですのでさわりだけ作ってあげておきました。 中身はこれから増やしていきまうす。 でも、とりあげるのは200年以降なんだよなあ。
37: 2002/11/02(土) 13:24 ぐっこ 2002年04月09日火曜日 00時14分 うお、玉屋にも「刺史奮迅」コーナーが!? いよいよ本格始動ですか!? あ、みなさま、私のところもコソーリとはじめました(;^_^A あいかわずスレ集になってますが…
38:岡本 2004/04/30(金) 02:00 流れをひどく引き戻してすみません。 学三のSS用ネタで揚州の刺史の変遷を調べていまして、 劉馥から温恢の空白をはさんだリレーがどうなっていたかを改めて 調べたところ、もうひとつ別の可能性に気づきました。 以前、温恢刺史就任時に対して玉川様ともす様の間で議論があり、 1.213年4月の孫権征討帰還後(玉川説) 2.214年10月の孫権征討後(もす説) の2説のうち、蒋済の丹陽太守就任推定時期から後者が有力視されました。 まず、曹操は赤壁後の209年3月に言焦へ戻っています。 蒋済が策略で孫権を退却させる一助を作ったのが208年とすると強制移住について質問したのが このときである可能性があります。 また、209年7月〜12月に曹操は合肥に出陣しています。 業βの帰還については、213年4月の前に、 関西軍閥征討後の212年1月にも、曹操は業βに帰還しています。 ここから、 言焦での曹操の諮問:209年3月以降 業βでの丹陽太守就任:212年1月以降 その後の大規模孫権征討212年10月〜213年4月。 温恢の揚州刺史就任と張遼・楽進の合肥駐屯 213年4月 という可能性もあるかと思われます。
39:岡本 2004/05/01(土) 12:19 後、蒋済の丹陽太守就任時期は212年1月以降という状況証拠としては 陳蘭、梅成、雷緒らの討伐がいつ行われたかにあるかと思います。 長江北岸の住民強制移住と、揚州北部・徐州南部で有力な豪族である彼らの討伐 は無関係ではないと考えられますので。 住民強制移住案自体は、赤壁ショックと直後の孫権の合肥侵攻(例の周喩とは2方面作戦になったもの) に対して曹操が反応したものでしょう。 そうして、その案に反発したのは住民だけでなく、豪族もだったと...。 劉馥の尽力で小康状態だったはずの地方豪族との関係がこれで一挙に悪化。 豪族の心理も赤壁の失敗で揺れ始めていたことを考えると、孫権の赤壁直後の合肥侵攻も 不安定勢力の揺さぶりという意味はあったのではないかと。 何はともあれ、これが209年7月〜12月の曹操合肥出陣と、地方豪族討伐になった と考えるのが妥当でないでしょうか。 夏侯淵や徐晃そして張コウも参加していることから、この討伐は 209年から211年までのものです。対周喩戦で苦戦中の江陵の曹仁に有効な 援軍が送れなかった理由も、エース格が大半こちらの戦線につぎ込まれていたからでしょう。 しかし、こう考えていくと、劉馥、蒋済、温恢の曹魏への貢献は恐ろしく大きいですね。 成果が分かりやすい武官のみならず、文官のほうも目を向けないと。
40:通りすがり 2004/05/02(日) 15:07 ふと思ったのですが、『後濟使詣鄴,太祖迎見大笑曰:「本但欲使避賊,乃更驅盡之.」』 は後日談で、丹陽太守を拝命したのは209年の言焦での会見の時、と考えてもいいのでは?
41:★ぐっこ 2004/05/03(月) 20:33 あー、ここのところ腑抜けてて頭の中が三国志脳になってない(^_^;) ちと状況を整理しないとだめですね。 >>7-10を読み直してみる …… … 駄目だ!( ゚Д゚) わたしロジック苦手なのよ! キモのひとつとなっていた曹操との会話ですが、>>40さまの一言で 覆るやもしれんし… うーん、もうちょい調べてみまつ。案外まだ他の武将の傳にヒント あるかもしれないし。集解のほうでは、このへんどうなってますか〜
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