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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
14: 2002/11/02(土) 12:54 玉川雄一 2002年03月16日土曜日 00時45分 盛り上がってまいりました! 皆様ご協力ありがとうございます。 さて、むじんさんのご指摘があった「徐州刺史」とは、鄭岐のことですね。 曹爽伝の桓範の所で登場します。桓範が使時節都督青、徐(州)諸軍事となったとき、「徐州刺史の鄭岐と家を争い、節をひきよせ、鄭岐を斬ろうとしたが、鄭岐の上奏によって、非は桓範の方にあるということで免職され帰郷した」とある部分ですね。 ですから、この場合は刺史と都督は別、と。晋代には兼任した人けっこう見ますけど、魏の頃はどうなんでしょう。 ところで、この後桓範はエン州刺史になりました。李勝の荊州⇔并州?は有名ですね。彼は刺史に任命されたものの、赴任しない内にあぼーんされてしまったようです。 さて、続きを調べないと。
15: 2002/11/02(土) 12:54 ぐっこ 2002年03月17日日曜日 16時15分 不肖ぐっこ、刺史奮迅の一員として、とりあえず旧刺史関連スレageときました〜。 いつ見ても刺史というのは妙な役割ですよね…。軍権があるのかないのか、そもそも文官なのか武官なのか。 あ、いきなり話逸らしてアレですけど――蜀や呉にも制度上刺史が置かれてたと思いますが、益州しか領土のない蜀にとっての「益州刺史」や、逆に「涼州刺史」とかの役職。単純に名誉職と言ってしまえばそうですが、普段何してたんでしょうね(^-^;
16: 2002/11/02(土) 12:54 玉川雄一 2002年03月17日日曜日 21時23分 あー、魏書第16の杜恕伝にて、彼が刺史について長広舌をふるっております。 なんでも、「刺史は軍事に携わるのをやめて民政に専念させろや」という趣旨らしいです。いわく、 「州や郡の長官たちは皆ともに人民をいたわる方策をないがしろに、し軍隊指揮の事をならい、農業養蚕の民も戦争のわざをきそっておりまして、根本(農業)に従事しているとは申せません」 また、それより以前に以下のような主張をしたようです。 「州や郡が兵を扱うと、戦功に専心して民政につとめないから、別に指揮官を置いて、[長官には]政治の任務を十分に果たさせるべきだ」 ですがこれは容れられなかったようです。 ちなみに、荊・揚・青・徐・幽・并・雍・涼の諸州は兵を持っているそうです。残りのエン・予・司・冀州だってゼロてんでもないのでしょうけどね。 ところで杜恕自身も幽州刺史に任ぜられました。しかも、建威将軍使持節護烏丸校尉も兼任ったらもう軍事もやれ! ってなものですわね。どうするのかと思ったら、程喜に弾劾されて免官になってしまいました。 杜恕については、もすさんのサイトで紹介されていたかと。 山川の中国史2によれば以下の通り。 「地方行政は州・郡・県三級の行政区画が基本であった。州には長官である刺史、その副官である別賀従事、文書を扱う治中従事・主簿、人事担当の功曹、管下の軍権を観察する部従事などがあった。」 「なお刺史は多くの場合将軍号をおび(将軍号のないものを単車刺史とよんだ)、その将軍号によって軍隊をひきい、かつ将軍に付属する府の属官が軍事を担当し、いっぽう、民政は刺史の属官である別賀従事以下の州官が担当するという区別があった。」 「ただし、刺史の持つ将軍号はしだいに名目的なものとなり、かわって軍事を担当する「都督」の役割が増加した」だそうです。 杜恕の主張は、このような形式に対して実状を訴えたものだったのでしょうかね。
17: 2002/11/02(土) 12:54 ぐっこ 2002年03月18日月曜日 23時41分 うわ〜! 玉様、詳報ありがとうございます〜! なるほど〜、刺史が軍を率いたのは、刺史の軍権ではなく、付随された将軍号に拠るものだったんですね〜! で、どうしても政治が疎かになるから、代わりに都督職ができると…。 むう! これまでの疑問が氷解したですよ!
18: 2002/11/02(土) 12:56 玉川雄一 ■もすさんの提唱された「徐州刺史おらへんの?」 いました。しかも! 臧覇。 呂虔。 臧覇はおそらく202年〜204年の間に任命されたようです。 【臧覇伝】 「夏侯淵とともに黄巾の残党徐和らを討伐し、功績があって徐州の刺史に昇進した」 【夏侯淵伝】 「済南郡と楽安郡の黄巾賊徐和・司馬倶らが城を攻撃し、県の高官を殺害した。夏侯淵は泰山・斉、平原各郡の軍兵を率いてこれを攻撃し、さんざんにうち破って徐和を斬り殺し、諸県を平定し、その食糧を没収して兵士に給付した」 そして年代の絞り込みは… 【楽進伝】 「黎陽における袁譚、袁尚攻撃に参加し、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった(202年)。別軍として黄巾の賊を攻撃し、それをうち破り楽安郡を平定した。ギョウの包囲(204)に参加し〜」とあるので、討伐はこの期間に行われたことに。その後、臧覇は徐州刺史になりました。 おそらく曹操の代は臧覇が務めたようにも思えますが… 続いて【呂虔伝】 「文帝は王位につくと、(呂虔に)裨将軍の位を加え、益寿亭侯にとりたて、徐州の刺史に昇進させ、威虜将軍の称号を加えた」 なんか二回将軍位を与えられておるのですが、一続きの処置じゃないのかもしれませぬ。 呂虔がいつまでこの地位を務めたか定かではありませんが、王祥を招いて別賀とし、民政は彼に一切委ねたそうです。「世間ではそのよく賢者にまかせたことに感心した」とか。 青・徐方面で軍功著しい彼らを刺史に据えたということは、やはり徐州も重要視されていたのではないでしょうか。
19: 2002/11/02(土) 12:56 ぐっこ 2002年03月20日水曜日 01時15分 おお、引き続いて貴重な情報! なんだ、臧覇も呂建も徐州刺史経験者ですか! どちらもそれなりに勇名のある人物! 徐州というと、三国安定期だと後方都市に近いカンジがしますが、やはりまだ要衝として重要視されてたという事でしょうか〜。
20: 2002/11/02(土) 12:57 玉川雄一 2002年03月23日土曜日 10時33分 魏書サーチ完了。いずれまとめます。 しかし、調べてみると刺史奮迅な方々はいっぱいいらっしゃいますねえ。 王凌も噂に違わぬ御仁だったし、孫礼も相当のプロフェッショナルと見た! やっぱ魏は強いわ。
21: 2002/11/02(土) 12:57 もす 2002年03月23日土曜日 22時10分 あまり手を出せなくてすいませぇん・・・ せめてもの罪滅ぼしとして・・・馬超伝附の『典略』での事なんですが、ぢつは郭援討伐の後、徐州刺史になってました。。(^^ゞ 我輩の人物列伝では、理解し難かったので書きませんでしたが・・・ まぁ、曹操が彼を徐州刺史に任ずる理由は「馬氏の勢力削減、地盤を無くす」という事だと思いますが、どうなんでしょうね? 刺史なのに任地に行かなくても良いものか。。それとも代行がいたのか。う〜むむむ・・・
22: 2002/11/02(土) 12:57 ぐっこ 2002年03月24日日曜日 00時16分 >玉様 領土の広い魏は、刺史奮迅な方々によって支えられてきたようなモノなんでしょうか…。ここにきてゴンタ先生がやたら地方長官特集をするのも、故無きことではないと。蜀や呉なら宰相級の人材が、地方をドサ周りしてるんですよねえ…。 魏編楽しみにしてまーす! >もす様 あ、ホントだ…馬超、徐州刺史・諫議大夫!? 似合わない役職だなあ…。董卓の時と同じく、やはり地盤切り離しっぽいですね…。郭援が斬られたのは袁譚・袁尚兄弟が仲違いする前みたいだから、202年・黎陽のあたり。この時期、徐州は空席だったわけか…。 こうやって見てると、馬家はだいぶ魏の中枢に取り込まれてたんですね〜。素直に曹操に従っていたら、少なくとも臧覇くらいにはなってただろうに…。
23: 2002/11/02(土) 12:57 玉川雄一 2002年03月24日日曜日 00時17分 うわ、ホントだ! ありがとうございました。やはり蜀書と呉書もサーチせねばのう。 ですが、魏書については、200年以前はチェックしてなかったりします。(中途半端やな) 馬超の徐州刺史ですけど、曹操が丞相になってからで、かつ馬超が地元で叛乱する前でしょうから… 208〜211年の間のことなのでしょうか。またいくらなんでも、馬騰達が処刑された時には剥奪されたでしょうねえ。 馬超が現地に赴いた様子もなさそうですし。 …って、あれ? なんだかここ、記述がおかしくないですかね。 馬騰が召し出されたのが208年。本伝と照らし合わせれば、この時馬超は涼州に残りました。続いて、 「これより前、曹公は丞相になると」馬超を招聘するが官に就かず ↓ 「それより後に」馬超は司隷校尉の督軍従事となって、郭援を討伐し、斬る ↓ 詔勅により徐州刺史に、のちに諫議大夫に ↓ 馬騰が入朝 …で、先程の部分に繋がると。 郭援討伐は、鍾ヨウ、張既伝によれば202年ごろのようですね。 (黎陽に退いた袁尚が郭援を送り込んだとあるので) じゃあその前に曹操が丞相になったというのはおかしいですよね。何かの間違い? また、郭援討伐後に徐州刺史になったのが正しいとすると、ちょうど臧覇とカブるような。 臧覇はしっかりと現地で働いたようですから、馬超の方は名誉職とか空手形とかだったりしたんでしょうか。 もしかして編者(魚豢か和訳者)のミス? やはり、原文にあたらないと分からんかのう。
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