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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
38:岡本 2004/04/30(金) 02:00 流れをひどく引き戻してすみません。 学三のSS用ネタで揚州の刺史の変遷を調べていまして、 劉馥から温恢の空白をはさんだリレーがどうなっていたかを改めて 調べたところ、もうひとつ別の可能性に気づきました。 以前、温恢刺史就任時に対して玉川様ともす様の間で議論があり、 1.213年4月の孫権征討帰還後(玉川説) 2.214年10月の孫権征討後(もす説) の2説のうち、蒋済の丹陽太守就任推定時期から後者が有力視されました。 まず、曹操は赤壁後の209年3月に言焦へ戻っています。 蒋済が策略で孫権を退却させる一助を作ったのが208年とすると強制移住について質問したのが このときである可能性があります。 また、209年7月〜12月に曹操は合肥に出陣しています。 業βの帰還については、213年4月の前に、 関西軍閥征討後の212年1月にも、曹操は業βに帰還しています。 ここから、 言焦での曹操の諮問:209年3月以降 業βでの丹陽太守就任:212年1月以降 その後の大規模孫権征討212年10月〜213年4月。 温恢の揚州刺史就任と張遼・楽進の合肥駐屯 213年4月 という可能性もあるかと思われます。
39:岡本 2004/05/01(土) 12:19 後、蒋済の丹陽太守就任時期は212年1月以降という状況証拠としては 陳蘭、梅成、雷緒らの討伐がいつ行われたかにあるかと思います。 長江北岸の住民強制移住と、揚州北部・徐州南部で有力な豪族である彼らの討伐 は無関係ではないと考えられますので。 住民強制移住案自体は、赤壁ショックと直後の孫権の合肥侵攻(例の周喩とは2方面作戦になったもの) に対して曹操が反応したものでしょう。 そうして、その案に反発したのは住民だけでなく、豪族もだったと...。 劉馥の尽力で小康状態だったはずの地方豪族との関係がこれで一挙に悪化。 豪族の心理も赤壁の失敗で揺れ始めていたことを考えると、孫権の赤壁直後の合肥侵攻も 不安定勢力の揺さぶりという意味はあったのではないかと。 何はともあれ、これが209年7月〜12月の曹操合肥出陣と、地方豪族討伐になった と考えるのが妥当でないでしょうか。 夏侯淵や徐晃そして張コウも参加していることから、この討伐は 209年から211年までのものです。対周喩戦で苦戦中の江陵の曹仁に有効な 援軍が送れなかった理由も、エース格が大半こちらの戦線につぎ込まれていたからでしょう。 しかし、こう考えていくと、劉馥、蒋済、温恢の曹魏への貢献は恐ろしく大きいですね。 成果が分かりやすい武官のみならず、文官のほうも目を向けないと。
40:通りすがり 2004/05/02(日) 15:07 ふと思ったのですが、『後濟使詣鄴,太祖迎見大笑曰:「本但欲使避賊,乃更驅盡之.」』 は後日談で、丹陽太守を拝命したのは209年の言焦での会見の時、と考えてもいいのでは?
41:★ぐっこ 2004/05/03(月) 20:33 あー、ここのところ腑抜けてて頭の中が三国志脳になってない(^_^;) ちと状況を整理しないとだめですね。 >>7-10を読み直してみる …… … 駄目だ!( ゚Д゚) わたしロジック苦手なのよ! キモのひとつとなっていた曹操との会話ですが、>>40さまの一言で 覆るやもしれんし… うーん、もうちょい調べてみまつ。案外まだ他の武将の傳にヒント あるかもしれないし。集解のほうでは、このへんどうなってますか〜
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