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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
8:2002/11/02(土) 12:52
もす 2002年03月14日木曜日 04時15分
ふむぅ、、4時間ほど虱潰しに調べていたら、、最初同意方向だったのが、、トンでもない(?)方向に・・・
まず、胡質伝の記述を見てみると「張遼は護軍の武周と仲違いしており、刺史の温恢に胡質を貰い受けたい、と申し入れた」とあり、そこで、張遼伝に目を転じると、(合肥を包囲した孫権が張遼と李典に敗れた)215年8月までに温恢が刺史に昇っていた事が確認されます。
省23
9:2002/11/02(土) 12:52
玉川雄一 2002年03月14日木曜日 18時06分
おおう! またも調査不足が露呈してしまった(-_-;) 「強制移住」についても注目しなければならなかったのですね。援護射撃ありがとうございます。やはり聞いてみるものだ。
こうして調べてみると、どうも温恢の刺史就任は相当ズレ込みますねえ。劉馥死後からこの間、中継ぎの揚州刺史はいたのでしょうか? この激戦区、それなりの担当官を充てる必要があったと思うのですが…
省8
10:2002/11/02(土) 12:53
もす 2002年03月15日金曜日 00時49分
いやいや、オイラの方が明らかに頻繁にツッコまれてますんで・・・(笑) 正直、一人が知る事の出来る情報量、ってそう多くないですよね。これこそ、掲示板の良さっすね♪
また、前回のカキコで書かなかったのですが、上が正しいためには二つの条件が必要なんですが・・・
省17
11:2002/11/02(土) 12:53
岡本 2002年03月15日金曜日 19時26分
どうも、初カキコさせていただきます。岡本です。
>徐州刺吏
官渡関連を調べようと魏志、蜀志を斜め読みしていましたら、菫昭伝で、”車冑を殺した劉備を徐州から放逐した後、菫昭が徐州刺吏となり、白馬の戦いで魏郡太守として参戦した”という記述があったように思います(手元に無いのであやふやですが)。
省8
12:2002/11/02(土) 12:53
むじん 2002年03月16日土曜日 00時03分
こういうときこそ中央研究院さま頼みですよっ♪
どれどれちっくと検索してみちゃろかね…。
省9
13:2002/11/02(土) 12:53
ぐっこ 2002年03月16日土曜日 00時12分
うぉ、いきなり「刺史奮迅」、アツい議論が!
うーむ、さしあたって温恢の就任時期、やはりもす様が仰るとおり、214年っぽいですね〜。ちょうど劉備が蜀入りしてるころか…。
でも、なるほど中継ぎが…。曹操のことだから、抜かりなく適材を放り込んでるところでしょうが…意外な人物の列伝に、こっそり書いてあったりして…正史はこれが面白い!
省8
14:2002/11/02(土) 12:54
玉川雄一 2002年03月16日土曜日 00時45分
盛り上がってまいりました! 皆様ご協力ありがとうございます。
さて、むじんさんのご指摘があった「徐州刺史」とは、鄭岐のことですね。
省13
15:2002/11/02(土) 12:54
ぐっこ 2002年03月17日日曜日 16時15分
不肖ぐっこ、刺史奮迅の一員として、とりあえず旧刺史関連スレageときました〜。
いつ見ても刺史というのは妙な役割ですよね…。軍権があるのかないのか、そもそも文官なのか武官なのか。
あ、いきなり話逸らしてアレですけど――蜀や呉にも制度上刺史が置かれてたと思いますが、益州しか領土のない蜀にとっての「益州刺史」や、逆に「涼州刺史」とかの役職。単純に名誉職と言ってしまえばそうですが、普段何してたんでしょうね(^-^;
16:2002/11/02(土) 12:54
玉川雄一 2002年03月17日日曜日 21時23分
あー、魏書第16の杜恕伝にて、彼が刺史について長広舌をふるっております。
なんでも、「刺史は軍事に携わるのをやめて民政に専念させろや」という趣旨らしいです。いわく、
省23
17:2002/11/02(土) 12:54
ぐっこ 2002年03月18日月曜日 23時41分
うわ〜! 玉様、詳報ありがとうございます〜!
なるほど〜、刺史が軍を率いたのは、刺史の軍権ではなく、付随された将軍号に拠るものだったんですね〜!
で、どうしても政治が疎かになるから、代わりに都督職ができると…。
省7
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