下
卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
17: 2002/11/02(土) 12:54 ぐっこ 2002年03月18日月曜日 23時41分 うわ〜! 玉様、詳報ありがとうございます〜! なるほど〜、刺史が軍を率いたのは、刺史の軍権ではなく、付随された将軍号に拠るものだったんですね〜! で、どうしても政治が疎かになるから、代わりに都督職ができると…。 むう! これまでの疑問が氷解したですよ!
18: 2002/11/02(土) 12:56 玉川雄一 ■もすさんの提唱された「徐州刺史おらへんの?」 いました。しかも! 臧覇。 呂虔。 臧覇はおそらく202年〜204年の間に任命されたようです。 【臧覇伝】 「夏侯淵とともに黄巾の残党徐和らを討伐し、功績があって徐州の刺史に昇進した」 【夏侯淵伝】 「済南郡と楽安郡の黄巾賊徐和・司馬倶らが城を攻撃し、県の高官を殺害した。夏侯淵は泰山・斉、平原各郡の軍兵を率いてこれを攻撃し、さんざんにうち破って徐和を斬り殺し、諸県を平定し、その食糧を没収して兵士に給付した」 そして年代の絞り込みは… 【楽進伝】 「黎陽における袁譚、袁尚攻撃に参加し、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった(202年)。別軍として黄巾の賊を攻撃し、それをうち破り楽安郡を平定した。ギョウの包囲(204)に参加し〜」とあるので、討伐はこの期間に行われたことに。その後、臧覇は徐州刺史になりました。 おそらく曹操の代は臧覇が務めたようにも思えますが… 続いて【呂虔伝】 「文帝は王位につくと、(呂虔に)裨将軍の位を加え、益寿亭侯にとりたて、徐州の刺史に昇進させ、威虜将軍の称号を加えた」 なんか二回将軍位を与えられておるのですが、一続きの処置じゃないのかもしれませぬ。 呂虔がいつまでこの地位を務めたか定かではありませんが、王祥を招いて別賀とし、民政は彼に一切委ねたそうです。「世間ではそのよく賢者にまかせたことに感心した」とか。 青・徐方面で軍功著しい彼らを刺史に据えたということは、やはり徐州も重要視されていたのではないでしょうか。
19: 2002/11/02(土) 12:56 ぐっこ 2002年03月20日水曜日 01時15分 おお、引き続いて貴重な情報! なんだ、臧覇も呂建も徐州刺史経験者ですか! どちらもそれなりに勇名のある人物! 徐州というと、三国安定期だと後方都市に近いカンジがしますが、やはりまだ要衝として重要視されてたという事でしょうか〜。
20: 2002/11/02(土) 12:57 玉川雄一 2002年03月23日土曜日 10時33分 魏書サーチ完了。いずれまとめます。 しかし、調べてみると刺史奮迅な方々はいっぱいいらっしゃいますねえ。 王凌も噂に違わぬ御仁だったし、孫礼も相当のプロフェッショナルと見た! やっぱ魏は強いわ。
21: 2002/11/02(土) 12:57 もす 2002年03月23日土曜日 22時10分 あまり手を出せなくてすいませぇん・・・ せめてもの罪滅ぼしとして・・・馬超伝附の『典略』での事なんですが、ぢつは郭援討伐の後、徐州刺史になってました。。(^^ゞ 我輩の人物列伝では、理解し難かったので書きませんでしたが・・・ まぁ、曹操が彼を徐州刺史に任ずる理由は「馬氏の勢力削減、地盤を無くす」という事だと思いますが、どうなんでしょうね? 刺史なのに任地に行かなくても良いものか。。それとも代行がいたのか。う〜むむむ・・・
22: 2002/11/02(土) 12:57 ぐっこ 2002年03月24日日曜日 00時16分 >玉様 領土の広い魏は、刺史奮迅な方々によって支えられてきたようなモノなんでしょうか…。ここにきてゴンタ先生がやたら地方長官特集をするのも、故無きことではないと。蜀や呉なら宰相級の人材が、地方をドサ周りしてるんですよねえ…。 魏編楽しみにしてまーす! >もす様 あ、ホントだ…馬超、徐州刺史・諫議大夫!? 似合わない役職だなあ…。董卓の時と同じく、やはり地盤切り離しっぽいですね…。郭援が斬られたのは袁譚・袁尚兄弟が仲違いする前みたいだから、202年・黎陽のあたり。この時期、徐州は空席だったわけか…。 こうやって見てると、馬家はだいぶ魏の中枢に取り込まれてたんですね〜。素直に曹操に従っていたら、少なくとも臧覇くらいにはなってただろうに…。
23: 2002/11/02(土) 12:57 玉川雄一 2002年03月24日日曜日 00時17分 うわ、ホントだ! ありがとうございました。やはり蜀書と呉書もサーチせねばのう。 ですが、魏書については、200年以前はチェックしてなかったりします。(中途半端やな) 馬超の徐州刺史ですけど、曹操が丞相になってからで、かつ馬超が地元で叛乱する前でしょうから… 208〜211年の間のことなのでしょうか。またいくらなんでも、馬騰達が処刑された時には剥奪されたでしょうねえ。 馬超が現地に赴いた様子もなさそうですし。 …って、あれ? なんだかここ、記述がおかしくないですかね。 馬騰が召し出されたのが208年。本伝と照らし合わせれば、この時馬超は涼州に残りました。続いて、 「これより前、曹公は丞相になると」馬超を招聘するが官に就かず ↓ 「それより後に」馬超は司隷校尉の督軍従事となって、郭援を討伐し、斬る ↓ 詔勅により徐州刺史に、のちに諫議大夫に ↓ 馬騰が入朝 …で、先程の部分に繋がると。 郭援討伐は、鍾ヨウ、張既伝によれば202年ごろのようですね。 (黎陽に退いた袁尚が郭援を送り込んだとあるので) じゃあその前に曹操が丞相になったというのはおかしいですよね。何かの間違い? また、郭援討伐後に徐州刺史になったのが正しいとすると、ちょうど臧覇とカブるような。 臧覇はしっかりと現地で働いたようですから、馬超の方は名誉職とか空手形とかだったりしたんでしょうか。 もしかして編者(魚豢か和訳者)のミス? やはり、原文にあたらないと分からんかのう。
24: 2002/11/02(土) 12:58 玉川雄一 2002年03月24日日曜日 00時21分 うわ、ぐっこさんが入ってる。 やっぱ、郭援討伐は202年ごろでしょう? すると、やっぱ臧覇と任命時期がカブると思うですよ。 典略の文章も意味不明だし… 責任者出てこい! あ、とりあえず臧覇さんと馬超さんおながいします。
25: 2002/11/02(土) 12:58 もす 2002年03月24日日曜日 04時49分 あ、ホントだ、メチャメチャじゃないですか。(^-^; そりゃ理解出来なかったワケだ(笑) さて、注目の中文ですが・・・ 『初 , 曹 公 為 丞 相 , 辟 騰 長 子 超 , 不 就 。超 後 為 司 隸 校 尉 督 軍 從 事 , 討 郭 援 , 為 飛 矢 所 中 , 乃 以囊 囊 其 足 而 戰 , 破 斬 援 首 。 詔 拜 徐 州 刺 史 , 後 拜 諫 議 大夫 。 及 騰 之 入 , 因 詔 拜 為 偏 將 軍 , 使 領 騰 營 。 』 ちくまの方が参考になさった方がこれと同じのを訳したのであれば、少なくとも、訳し間違いでは無いようですねぇ。(^^; 順序がオカシイのは確かだと思うんですが・・・ それとも、司空=丞相とみなしたんでしょうか? 仮にそうだとしても、臧覇との兼ね合いはサパーリですが。。(;^_^A
26: 2002/11/02(土) 12:58 もす 2002年03月24日日曜日 05時23分 あ、于禁伝と武帝紀での曹操の駐屯地(北海郡淳于県)を見る限り、臧覇が徐州刺史になったのは205年頃以降ですから、馬超→臧覇と徐州刺史が渡されたのなら、普通に説明できますですよ。 ・・・なんか、我輩の昌[豕季]伝、書き直しが必要カモ。。ぐふぅっ・・・
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1036208209/l50