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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
39:岡本2004/05/01(土) 12:19AAS
後、蒋済の丹陽太守就任時期は212年1月以降という状況証拠としては
陳蘭、梅成、雷緒らの討伐がいつ行われたかにあるかと思います。
長江北岸の住民強制移住と、揚州北部・徐州南部で有力な豪族である彼らの討伐
は無関係ではないと考えられますので。
住民強制移住案自体は、赤壁ショックと直後の孫権の合肥侵攻(例の周喩とは2方面作戦になったもの)
に対して曹操が反応したものでしょう。
そうして、その案に反発したのは住民だけでなく、豪族もだったと...。
劉馥の尽力で小康状態だったはずの地方豪族との関係がこれで一挙に悪化。
豪族の心理も赤壁の失敗で揺れ始めていたことを考えると、孫権の赤壁直後の合肥侵攻も
不安定勢力の揺さぶりという意味はあったのではないかと。
何はともあれ、これが209年7月〜12月の曹操合肥出陣と、地方豪族討伐になった
と考えるのが妥当でないでしょうか。
夏侯淵や徐晃そして張コウも参加していることから、この討伐は
209年から211年までのものです。対周喩戦で苦戦中の江陵の曹仁に有効な
援軍が送れなかった理由も、エース格が大半こちらの戦線につぎ込まれていたからでしょう。
しかし、こう考えていくと、劉馥、蒋済、温恢の曹魏への貢献は恐ろしく大きいですね。
成果が分かりやすい武官のみならず、文官のほうも目を向けないと。
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