卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
7:2002/11/02(土) 12:52

玉川雄一   

 ■刺史奮迅・活動の第一歩■

はい、皆様からのご意見を伺いたいと思いまして。
以前ここで書きましたが、温恢が揚州刺史になった時期についてです。
どうも私は、劉馥の死後すぐ、ではないような気がするのですが…
蒼天航路は、アレはアレでいい話に仕上がっているので良しとします。

私の解釈を再録しますと…

【温恢伝】
「中央に入って丞相主簿となり、外に出て揚州の刺史となった。(中略) 当時蒋済は[太祖に]目通りして丹陽の太守となっていた。そこで蒋済を[出身の]州に帰した」

ポイントは、「蒋済が丹楊太守になった時期」です。

【蒋済伝】
「建安13年(208)、孫権が軍勢を率いて合肥を包囲した。(中略) (孫権は)急遽包囲の陣営を焼き払って逃走し、城はお陰で無事にすんだ。翌年、使者として[言焦]に出向いた蒋済に太祖は質問した」「(中略)のちに蒋済が使者として[業β]に行ったとき、太祖は出迎え、会うと大笑いして言った。(中略)蒋済を丹楊の太守に任命した。大軍が南征して帰還のおり、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を[州の]別賀に任命した」

蒋済が209年に[言焦]に出向いたというのは、この年の曹操の行動と重なります。
春3月〜[言焦]〜秋7月〜合肥〜12月に[言焦]に帰還
この春か冬のどちらかの時に曹操と会った事になります。
次の、[業β]での会話ですが…210、211年の間の可能性もあります。銅雀台の建設を命じたということは、あるいは[業β]にいたのでしょうか。
曹操は211年後半〜212年春に末に関西で馬超と戦い、212年3月に再び[業β]に帰還、続いて合肥へと出陣しています。この時は濡須口まで進出し、翌年春までかかりました。

つまり、温恢の揚州刺史就任の契機となった南征は、209年のものではないと考えるのです。おそらく次の212年の際であり、そして南征からの帰還時ということを考えれば、温恢の揚州刺史就任は213年春にまでずれ込むことになります。

以上のようになりますが、皆様のご意見も伺いたいと思います。
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