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卍◆◆◆◆◆刺史奮迅◆◆◆◆◆卍
8:2002/11/02(土) 12:52AAS
もす 2002年03月14日木曜日 04時15分
ふむぅ、、4時間ほど虱潰しに調べていたら、、最初同意方向だったのが、、トンでもない(?)方向に・・・
まず、胡質伝の記述を見てみると「張遼は護軍の武周と仲違いしており、刺史の温恢に胡質を貰い受けたい、と申し入れた」とあり、そこで、張遼伝に目を転じると、(合肥を包囲した孫権が張遼と李典に敗れた)215年8月までに温恢が刺史に昇っていた事が確認されます。
そこで、209〜215年の間に行われた『南征』を武帝紀から引くと、209年7月、212年10月〜翌年春、そして214年7月。
さて、武帝紀と呉主伝でおおまかな流れを調べていると、213年の呉主伝に「これよりさき、曹公は長江沿いの郡県が奪われるのを心配して強制的に移住させようとした」(つまり『移住計画』)とあります。
これでは「これよりさき」と訳した意図が不明瞭ですので、中文をあたると、
『(建安)十八年(西暦213年)正月,曹公攻濡須,權與相拒月餘。曹公望權軍,歎其齊肅,乃退。初,曹公恐江濱郡縣為權所略』
となっており、ちくまでの「これよりさき」は、中文での『初』にあたります。
そこで考えますと、『移住計画』が遂行されたのは、212年から進めていた濡須江攻めの前(=初)という事になり、とすれば、蒋済を丹陽太守に任じた時期はこれ以降となります。
そこで「[業β]に行った時、(蒋済は)丹陽太守」→「大軍の期間の折・・・(蒋済は)州の別駕に」という順番を踏まえると、(曹操が最初に[業β]に還った)213年4月の段階で「蒋済が丹陽太守に任じられた」事が分かると思います。そこで、213年4月〜215年8月に呉に対して兵を動員したのは、214年7月しか有り得なくなります。。
この214年7月の軍の動員は、本来は「5月に孫権が[白完]城に侵攻した事」への対応だったようですが、『九州春秋』の「戦功が無かった」という記述から、既に孫権は退却した後であった事が想像されます。
また、蛇足ですが、215年3月に曹操は張魯を征伐。鬼の居ぬ間を狙った孫権が張遼と李典に敗れたのが同年8月。孫権の抜け目無さは確かのようです(笑)
以上から考えると、温恢の刺史任命は214年の7月〜(帰途についた)11月となるのではないでしょうか?(^^)
この前の赤壁ネタで「温恢(揚州、寿春?)」とか書いていた自分は一体・・・(゚_゚;)
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