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【か、カウ…】牛金【ゴールド…?】
18: 2002/11/02(土) 12:50 もす 2002年02月26日火曜日 02時40分 一応、当時の諸将の動きを調べてみると、こんなカンジになりました。 ただ、初めに言っておきますが、信頼性は全く保証できません。。(^^; [後方駐屯組] 楽進(襄陽)、曹仁(江陵)、徐晃(樊)、呂虔(泰山)、張既(関中)、梁習(并州)、蒋済(九江)、温恢(揚州、寿春?)、蘇則(安定?)、杜畿(河東?)、、、 [烏林出征組] 曹純、満寵、張喜(→合肥)、、、 [後方駐屯?] 夏侯淵(泰山、斉、平原?)、張遼(長社?)、張コウ(長社?)、李通(汝南?)、荀(許昌?)、趙儼(扶風?)、、、 [烏林方面出征?] 文聘(江夏?)、臧覇([白完]?)、曹洪(?)、荀攸(?)、賈[言羽](?)、、、 [全くの不明] 夏侯惇、韓浩、史渙、程G、于禁、李典、許チョ、、、 さらに説明しようと思ったら長くなってしまったので、結論だけ言うと「10万を切るくらい」だと思います(^^) P.S.前回のカキコの時に呉主伝の記述を忘れていましたんで、ちと。 「烏林の敗戦の後、夷陵で甘寧が曹仁の包囲を受けていたが、周瑜は呂蒙の案を採用し、“リョウ統”に江陵で曹仁を食い止めさせ、一方で“半分の兵力”を率いて甘寧の救援に赴いた。軍は勝利を収め、(踵を)返した。」 以上から察するに、牛金は夷陵への増援兵だったのかもしれませぬ(^^)
19: 2002/11/02(土) 12:50 もす 2002年02月26日火曜日 18時15分 あぅ、答えになってませんでした。。(^^; 「上のように、後方に控えた者、若しくは孫権の合肥進軍と対陣した者も相当数いたようです」というのが、ご質問に対する『オイラのお答え』でした。<(_ _)>
20: 2002/11/02(土) 12:50 玉川雄一 2002年02月26日火曜日 22時20分 こいつァ労作! お疲れさまでした。しかし既に大陸レベルですなあ… でも、おもたんですが、この時温恢はまだ揚州にいなかったのでは? 【温恢伝】 温恢が揚州刺史になったとき、蒋済は丹陽(丹楊)太守だった 【蒋済伝】 蒋済が丹楊太守になったのは209年以降で、それに続いて「大軍が南征して帰還のおり、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を州の別賀に任命した」とあります。 この「南征」は209年秋の合肥出陣か、もしかすると212年冬〜213年春にかけての濡須口攻撃の事かもしれません。 どのみち蒼天航路で描かれたように、劉馥没後にすぐ温恢が後任になったわけではないように思われます。 すると、赤壁の時点では温恢はまだそれ以前の役職(と所在地)にあったのではないでしょうか。つまり、寿春ではないような。 丞相主簿として曹操のもとにいたか、さらにその前任の魯の相、あるいは彭城の相だったか… 以上、もすさんの本論とは関係ありませんが、温恢促進委員会(いつ作った)として考察してみました。
21: 2002/11/02(土) 12:51 ぐっこ 2002年02月27日水曜日 00時27分 もすさま、ありがとうございます! ふーむ、「赤壁では主だった将帥の戦死者がなかった。故に赤壁の戦いは無かった」と主張する一派を見かけましたが、この表を見せてあげたい。 おもだった将帥の戦死者も何も、ほとんど留守番役やん! >夷陵 うーむ、言われて見れば…。ええと、位置関係なんですが、この場合、曹仁が江陵を守り、誰か別の魏将が夷陵に派遣されていた、ということですよね。あ、演義でも書いてある(^-^; 夷陵の守将・曹洪を、牛金と曹純が救援した、と。なんだ、赤壁よりもずっと豪華なキャストが出回ってるじゃないか〜。 赤壁・烏林よりも、江陵・夷陵の戦いの方がよほど重要だったみたいですね〜。 >玉様 いつのまに温恢にハマりましたか(^-^; なるほど、温恢は赤壁前後ではまだ揚州に赴任してない可能性アリ、と。蒼天航路ちょっとミス。
22: 2002/11/02(土) 12:51 もす 2002年02月27日水曜日 09時16分 >温恢 確かに・・・(^^; 蒋済の伝とゴチャ混ぜになった挙句、蒋済伝の記述を読み取れていなかったようです・・・あははは・・・ すいません〜〜。<(_ _)> 彼がいた可能性のあるのは、魯か烏林か許都(or[業β])のどれでしょうか。 何はともあれ、「不明」欄に『温恢(魯?丞相主簿?)、』と、こんなカンジで入れてくだされ。。 なお、ほとんど流し読みしただけなので、他にも「違うぞ!」いうのがありましたら、遠慮無くご忠言ください(爆) >演義 やっぱり演義ってよく出来てはりますなぁ(笑)
23: 2002/11/02(土) 16:29 玉川雄一 改めて牛金。最近なにかとホットなお方ですな(^_^;) 晋書宣帝紀読んでましたら、司馬懿の公孫淵討伐のくだりに 『景初二年、牛金、胡遵等歩騎四万をひきいて京都(洛陽ですか)を発つ』とありました。(違約) この牛金は誰でしょう? いい加減「小吏牛氏」でもないとは思いますが(^_^;) やっぱ、「司馬懿に粛清された」牛金なんでしょうか。 そして建安年間に曹仁の元で戦った牛金と同一人物? …まあ、年代的にはあり得なくもないですねえ。
24: 2002/11/02(土) 16:29 玉川雄一 2002年06月16日日曜日 01時07分 ×違約 ○意訳 味好漢・牛金の登場を願って。
25: 2002/11/02(土) 16:29 むじん 2002年06月16日日曜日 07時07分 おなじ公孫淵叩きのところに陳ケイという人も出てきます。 陳登パパだったら面白いな♪
26: 2002/11/02(土) 16:29 玉川雄一 2002年06月16日日曜日 09時35分 >陳珪 さすがにソレは…(^_^;) もはや人外の生物では。 まあ、何百年も生きていたと称する人の出るお国柄(?)ですしねえ。 ちなみに親記事で挙げた引用文、主語はもちろん司馬懿です。 「司馬懿が牛金、胡遵らをひきいて」であって、牛金が胡遵らを率いたんではありませんので念のため。 もっとも曹仁麾下の彼と同一人物なら、この頃には相当の地位に昇っていたのでしょうね。 江陵戦役から30年、血気盛んな一部隊長から堂々たる将軍へ… う〜ん、サクセスストーリーだねえ。(豪快にはしょられてますが) …などと妄想してみる。
27: 2002/11/02(土) 16:30 ぐっこ 2002年06月16日日曜日 16時31分 やっぱり、「司馬懿の粛正」のほうの牛金ではないかと〜。 晋書読む限り、ことさらに誅殺されるほどの名将に育っていたようですし〜…曹仁の下でみっちりしごかれたのではないでしょうか。 年齢から言うと、一介の部隊長ではなく、中軍の将、もう後将軍になってた頃かも?(魏の官位かなあ) 彼もトピたてたら面白いキャラかも…味好漢!
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