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【か、カウ…】牛金【ゴールド…?】
30: 2002/11/02(土) 16:30 クェン 2002年06月28日金曜日 00時12分 >牛氏って、牛金以外に目立つ連中がいたかどうか… 張遼伝によると、張遼が張コウ・「牛蓋」らを指揮して陳蘭を討伐したらしいですね。 張コウと並んで名前が登場するなんて、なかなか大物っぽい… 正史で五将軍と名前を並べるほどということは史奐や朱霊クラス!? 牛金の親とかだったら面白いんだけど… >あ、董卓の女婿にも一人いたか…。 >思えば、彼ってば董卓軍団の事実上のナンバー2。反董卓同盟を蹴散>らすために派遣されていた軍団のリーダー。 >本当にそんな大役が務まるほどのオトコだったの!? 猛将の李カク・郭レ・張済(張繍もいたのかも)らを従え、さらに賈クまで!人材的には悪くない…けどこんな連中を統率するのは大変そう…。とはいえ牛輔が逃げたとたんに、軍が崩壊しかけたのを考えると、それなりに統率力があったのかもしれません。
31: 2002/11/02(土) 16:31 ぐっこ 2002年06月29日土曜日 23時32分 おっとお! クェンさま感謝〜! 牛氏…そう言う人物がいたのか〜!確かに名前の釣り合いでは宋謙的なポイントにいる人物かも。 牛輔は、もうちょっと賢く立ち回ったら天下を取れていたかも知れない人物。軍団も人材もあれだけそろっていて…。実際に董卓が婿に選ぶほどの人物、ただのバカではなかったと思います。 しかし死に様がかっこわるい…
32: 2002/11/02(土) 16:31 おばら 2002年07月13日土曜日 23時17分 ども。お久しぶりです。 牛氏ねたを一つ。 「新唐書」によりますと、牛氏はもともと子姓(殷王朝の姓)であったそうです。で、殷の後裔であった宋の微子がいまして、微子の後裔に司寇になった牛父という人物がいたそうです。 その牛父の子孫が、後漢初期に活躍した牛邯だそうです。 「後漢書」によりますと、牛邯、字は孺卿で隴西狄道の人。 隗囂に属していましたが、王遵の説得に応じて投降しています。 太中大夫になった後、馬援や杜林らに推薦されて護羌校尉に任じられ、來歙とともに隴右を平定してまわっています。 「新唐書」によりますと、その後牛氏は安定に移ったそうです。 狄道出身ということで、董卓(臨桃出身)の女婿・中郎将牛輔と何か関係があるやもしれませんねー。臨桃と狄道は同じ川ぞいにありますからねぇ。 あ、牛金から離れていく・・・
33: 2002/11/02(土) 16:31 ぐっこ 2002年07月15日月曜日 01時19分 うお! おばらさま、ありがとうございます! なんとまあ、微子の後裔ですか! 牛邯!牛タン…(^_^;) いや、それはともかく、隴西方面ですと、確かに董卓とつながりがあっても不思議でない位置ですねえ…。牛氏は、涼雍のあたりでなかなかの実力を持つ一族になっていたとか? 董卓が敢えて婿に選んだのも、その辺のバックボーンを期待して…? 考えれば考えるほど面白い! 牛金…あ(^_^;) まあ牛氏スレと言うことで〜!
34: 2002/11/02(土) 16:32 左平(仮名) 2002年07月31日水曜日 22時48分 興味あるネタなので、上げておきます。 牛氏も、牛邯の子孫とすれば、なかなかの名門と言えそうなのですね。 と、なると…こんなのはどうなんでしょう? 牛邯……牛輔┬─牛蓋 └─牛金(江陵の戦いの時30前後という設定) 裏付けは何もありませんが、こういう系図のもと、一編の作品が作れるかも知れませんね。 …董卓が凶刃に斃れ、娘婿の牛輔もまた命を落とす。董卓に連なる者達が次々と殺される中、脱出した兄弟がいた。牛輔の子・牛蓋と牛金である(脱出の際、名を変えたという設定も可)。 乱世の中、頼る者もない流浪の旅を経て、二人は(素性を隠して)曹操に仕える。(直接にではないが)父の仇といえる呂布との戦いでの活躍が認められた二人は武将に抜擢され、兄の牛蓋は張遼達と共に陳蘭討伐で戦功を立てるが、早世する。 一人残された牛金は、名将・曹仁の配下として活躍し、その庇護のもと着実に位階を上げていく。そうして、魏の忠臣として自他共に認める存在となる。 が、武人らしい硬骨漢(さらに、たたき上げの軍人)である彼の存在は、宮廷の実力者達には鬱陶しいものでもあった。やがて彼が牛輔の子である事が知られ(公表はされなかったが)、その為に自殺を強いられる。 その死の真相を知った子孫達により、報復がなされる。それは… どなたか挑戦されては? 私は、この件については情報不足なので、このくらいしか。
35: 2002/11/02(土) 16:33 左平(仮名) 2002年07月31日水曜日 22時53分 ↑ありゃ…またずれちゃいましたね。 一応、牛輔の子に牛蓋(兄)、牛金(弟)という設定で考えてみました。 それはそうと、最近はこんなネタしか提供できないのが情けない(完全に空想の産物ですし)…。正史もただの事典となっている状態で、ろくに読んでないんですよね。
36: 2002/11/02(土) 16:33 クェン 2002年08月01日木曜日 00時31分 >もす様 牛蓋と牛金が牛輔の子という設定だと…2人は董卓の孫ですか!? これは強そうだ。 ところで、晋書には牛金が馬岱を散々に撃ち破ったエピソードがあると聞いたのですが…この2人が戦うなんてどんな状況なんですかねえ…。 勝った相手が馬岱というのは凄いのかどうか微妙。
37: 2002/11/02(土) 16:33 もす 2002年08月01日木曜日 00時58分 ⇒クェンさん ん? わしではなく左平さんでしょうか??(;^_^A ちなみに、馬岱と牛金が刃を交えたのは、青龍3年(235年)のことですね♪ | 蜀将・馬岱が国境を越えて寇を為したため、帝(司馬懿)は牛金を遣わして | 之を撃ちて走らし、一千あまりを斬る。 これに続けて、「武都のテイ族が来降した」と書かれていますので、 おそらく、この時の敗戦で蜀から武都テイが離れたのでしょう(^^) また、馬岱が敗れて斬られたのが「一千人あまり」ですから、 率いていたのは、「少なくとも5桁に達していた」と見積もるべきかもしれませんね。 ・・・馬岱も結構な権力を有していたのかも。。(^^ゞ
38: 2002/11/02(土) 16:34 クェン 2002年08月01日木曜日 01時29分 もす様、情報ありがとうございます。変な書き方で惑わせてしまったようですみません。 馬vs牛は235年ですか。なるほど、この時期であれば、魏延を斬った功績によって馬岱が大軍を動かす権力を得ていてもおかしくないですね。明帝紀にも後主伝にも記されてないのが不思議ですが… >武都のテイ族が来降した 馬vs牛の翌236年に、テイ族400家を広県に移住させ(後主伝)、その400家が魏に降ったのは251年(張嶷伝)… 馬岱敗戦→この敗戦により異民族が蜀を見限って魏に降らないように移住させた→それが不満で結局は魏に降った、という流れですかね。
39: 2002/11/02(土) 16:34 ぐっこ 2002年08月01日木曜日 23時11分 >牛金 おー! 左平(仮名)様、そのシチュかっこいい! 確かに設定としてはムリがありますが、まあ史料残ってない人たちだし(^_^;) 牛輔は…本当に興味のある人物です。死に様の格好悪さがまた萌える… >馬岱 平北将軍という将軍位が伝わっていますが、別スレで話題になったように蜀のそれは必ずしも高位の将軍ではないということで。 ただ役職名と考えれば、対北国境軍の責任者の一人であったことは疑いないですね〜。 牛金は最終的に司馬氏に殺される、ということになっていますが、そういう伝承抜きで、もう「先代の英雄」扱いの年齢。相当に信任されていたものと思われます。
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