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【か、カウ…】牛金【ゴールド…?】
11: 2002/11/02(土) 12:48 NOB 2002年02月20日水曜日 17時30分 中根さんありがとうございます。 実は『廿二史箚記』(の電子テキストの一部?)も『晋書辞典』も持っているのですが、読んでいないことを暴露していますね、自分(爆) 卒論も終わったので、ゆるゆると読んでいこうと思います。『廿二史箚記』はともかく、『晋書辞典』の方は一石数鳥ですし。 #っていうか、読みたいもの多過ぎ…消費量が追いつきません。 どこで刷り込まれたのか忘れてしまいましたが、「正史中最悪」という強いインパクトだけが頭に残っていました(^-^; まぁ、それならそれで「どういうふうに変なネタが紛れ込んだのか」というのも非常に興味があるところなのですが。 すみません、ネタが牛金からどんどん離れてしまいました。というわけでsage〜(←無い)
12: 2002/11/02(土) 12:48 クェン 2002年02月20日水曜日 23時32分 こんばんわ。こちらには初めて書かせていただきます。 牛金って特攻したくせに敵に囲まれ右往左往…三国志で特攻に失敗したのって牛金だけですよね(史書に書かれてる限りでは)。 後で曹仁に怒られなかったのだろうか。
13: 2002/11/02(土) 12:48 ぐっこ 2002年02月21日木曜日 20時54分 >晋書 わたしもどこかで「晋書最悪」の強烈なイメージが刷り込まれてますが…(^-^; どこだろ…大澤教官の三国時代あたりかもしれない…。 ですが、なるほど、史書としての評価は低くなかったんですね! ああよかった…。 まあ妙な逸話を正史に盛り込む程度なら他のもやってるでしょうし…「文章が優れている」というのも初めて知りました! それに怪しげな話は後ろの方でコソーリやっているというのも、感心です! ううむ…本家中国での評価は高い、と。 …晋書辞典!? …おっそろしく奥が深い…史学は広大だわ…(素子風)。 >牛金 そうそう、最初はこの話だったんですよね(^_^; クェンさまようこそ〜。 牛金も、あんがい活躍してる人ですのにね〜。後将軍まで上ってるし、馬岱をうち破ってるし、司馬懿に毒を盛られて死ぬという胡散臭い話(^-^;の時は、「父上!あれほどの名将をなぜ!」と司馬師を嘆かせたり… ちなみに特効失敗のエピソード、よく読んでみると、かなり無茶な話です。「周瑜率いる数千の軍が到着」とあるのに対し、「曹仁は兵300人を集めて曲将・牛金に攻めさせた」と…。 曹仁! 魏随一の猛将・曹仁! 数千人の、しかも周瑜の率いる大部隊に、300人で攻めさせる曹仁! こりゃあ牛金が可哀想すぎます(^_^; 曹仁もこう思ったことでしょう。 「正直、すまんかった」 と。
14: 2002/11/02(土) 12:49 クェン 2002年02月22日金曜日 00時26分 晋書よりも良い歴史書は多いが、より悪い歴史書はもっと多い、といったところでしょうか。三国志と史記くらいしかよく知らない私にとっては、どうしてもこの2冊が基準になってしまうので、今まで晋書に良いイメージを持って無かったです(陳寿のゴシップ満載と聞いていたし)。ろくに知らないのに・・・いかんなあ自分。 >数千人の、しかも周瑜の率いる大部隊に、300人で攻めさせる曹仁!こりゃあ牛金が可哀想すぎます(^_^; う、こりゃ確かに可哀そ・・・。そうすると曹仁が数十騎を率いて救出したのも、謝罪の意かもしれませんね。 または牛金だったら、これくらい出来ると期待されていたのかも・・・それは無い!?
15: 2002/11/02(土) 12:49 もす 2002年02月22日金曜日 21時55分 >「周瑜率いる数千の軍が到着」 曹仁のネタが出たので登場(笑) これって、周瑜が率いたんでしょうか? ちくまには「周瑜率いる数万人。先発隊数千人が到着した時、300人を募って牛金に対抗させた」(要約)となってまして、ちくまに沿うならば(笑)、おそらくは周瑜は到着していなさそうッス。 個人的に考えているのは甘寧、呂蒙、リョウ統などですが、まぁ、憶測ですね(爆) また、300人で対抗させたのは「足止め」や「威嚇」、及び「鼓舞」が理由だと思いますよ(^^) 「足止め」とは敵の鋭鋒を食い止める事。 そこから派生して、「足止め」によって敵に自分達が油断ならない存在である事を知らせて意気を挫いたり(「威嚇」)、「足止め」の成功で味方の士気を上げる(「鼓舞」)など。 「先発隊」を食い止めても後ろに数万人が控えているワケで、数千人(3000人位?)の江陵城中の兵力からすると「先発隊数千人」に対抗するのは「数百人」になるのは致し方ないでしょう。 勿論、江陵城中の全兵力を以って先発隊を破ろうとするのも手ではありますが、曹操から「負けない」から認められ、「負けない」が身上である曹仁がそのような危ない橋を渡る事は考え辛いでっす。彼に与えられた使命は「敵を破る事」ではなく「曹操が陣営を立て直す時間稼ぎをする事」なのですから(^^)
16: 2002/11/02(土) 12:49 もす 2002年02月22日金曜日 21時58分 >曹操から「負けない」から認められ あ、すいません。これ、自分の考えでした(^^ゞ 書き終えた後で削るつもりだったんですが。。失礼しました。
17: 2002/11/02(土) 12:50 ぐっこ 2002年02月22日金曜日 23時23分 >クェン様 晋書、私も腰を落ち着けてじっくり読みたいです…。陳寿についてチクチク書いているらしいですが、実は私読んでない(^_^; こんど電子文献で読みます〜。 牛金、ゲームでは一時武力80代後半という、曹仁よりも強い男でした(^_^; >もす様 うーむ。もす様の言に10000ムネオ! いま吉川三国志読み直しててたら、当の牛金が「士気高揚のために一当てさせてください」とか申し出てたり…。たしかに守ってるだけだと叩かれ放題ですものね…。 「先鋒隊」あ、ホントだ(^_^; ところでひとつ疑問が派生したのですが、曹操が烏林・赤壁へ連れて行った兵力というのは、どれくらいのものだったんでしょうか? 「曹操軍十万〜二十万余」というのは荊州留守組を含んだ数字だと思うんですが、コイツらはどこへ? もす様の仰るように、江陵の防御に当たってたのは数千規模でしょう。やろうと思えば数万の軍も駐留できる前進基地なのに…。 まさか二十万のほとんどが烏林へゾロゾロ押し掛けたのか、逆に樊・襄陽でマターリとしていたのか…。
18: 2002/11/02(土) 12:50 もす 2002年02月26日火曜日 02時40分 一応、当時の諸将の動きを調べてみると、こんなカンジになりました。 ただ、初めに言っておきますが、信頼性は全く保証できません。。(^^; [後方駐屯組] 楽進(襄陽)、曹仁(江陵)、徐晃(樊)、呂虔(泰山)、張既(関中)、梁習(并州)、蒋済(九江)、温恢(揚州、寿春?)、蘇則(安定?)、杜畿(河東?)、、、 [烏林出征組] 曹純、満寵、張喜(→合肥)、、、 [後方駐屯?] 夏侯淵(泰山、斉、平原?)、張遼(長社?)、張コウ(長社?)、李通(汝南?)、荀(許昌?)、趙儼(扶風?)、、、 [烏林方面出征?] 文聘(江夏?)、臧覇([白完]?)、曹洪(?)、荀攸(?)、賈[言羽](?)、、、 [全くの不明] 夏侯惇、韓浩、史渙、程G、于禁、李典、許チョ、、、 さらに説明しようと思ったら長くなってしまったので、結論だけ言うと「10万を切るくらい」だと思います(^^) P.S.前回のカキコの時に呉主伝の記述を忘れていましたんで、ちと。 「烏林の敗戦の後、夷陵で甘寧が曹仁の包囲を受けていたが、周瑜は呂蒙の案を採用し、“リョウ統”に江陵で曹仁を食い止めさせ、一方で“半分の兵力”を率いて甘寧の救援に赴いた。軍は勝利を収め、(踵を)返した。」 以上から察するに、牛金は夷陵への増援兵だったのかもしれませぬ(^^)
19: 2002/11/02(土) 12:50 もす 2002年02月26日火曜日 18時15分 あぅ、答えになってませんでした。。(^^; 「上のように、後方に控えた者、若しくは孫権の合肥進軍と対陣した者も相当数いたようです」というのが、ご質問に対する『オイラのお答え』でした。<(_ _)>
20: 2002/11/02(土) 12:50 玉川雄一 2002年02月26日火曜日 22時20分 こいつァ労作! お疲れさまでした。しかし既に大陸レベルですなあ… でも、おもたんですが、この時温恢はまだ揚州にいなかったのでは? 【温恢伝】 温恢が揚州刺史になったとき、蒋済は丹陽(丹楊)太守だった 【蒋済伝】 蒋済が丹楊太守になったのは209年以降で、それに続いて「大軍が南征して帰還のおり、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を州の別賀に任命した」とあります。 この「南征」は209年秋の合肥出陣か、もしかすると212年冬〜213年春にかけての濡須口攻撃の事かもしれません。 どのみち蒼天航路で描かれたように、劉馥没後にすぐ温恢が後任になったわけではないように思われます。 すると、赤壁の時点では温恢はまだそれ以前の役職(と所在地)にあったのではないでしょうか。つまり、寿春ではないような。 丞相主簿として曹操のもとにいたか、さらにその前任の魯の相、あるいは彭城の相だったか… 以上、もすさんの本論とは関係ありませんが、温恢促進委員会(いつ作った)として考察してみました。
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