【か、カウ…】牛金【ゴールド…?】
20:2002/11/02(土) 12:50

玉川雄一     2002年02月26日火曜日 22時20分

こいつァ労作! お疲れさまでした。しかし既に大陸レベルですなあ…

でも、おもたんですが、この時温恢はまだ揚州にいなかったのでは?

【温恢伝】
温恢が揚州刺史になったとき、蒋済は丹陽(丹楊)太守だった

【蒋済伝】
蒋済が丹楊太守になったのは209年以降で、それに続いて「大軍が南征して帰還のおり、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を州の別賀に任命した」とあります。
この「南征」は209年秋の合肥出陣か、もしかすると212年冬〜213年春にかけての濡須口攻撃の事かもしれません。
どのみち蒼天航路で描かれたように、劉馥没後にすぐ温恢が後任になったわけではないように思われます。
すると、赤壁の時点では温恢はまだそれ以前の役職(と所在地)にあったのではないでしょうか。つまり、寿春ではないような。
丞相主簿として曹操のもとにいたか、さらにその前任の魯の相、あるいは彭城の相だったか…

以上、もすさんの本論とは関係ありませんが、温恢促進委員会(いつ作った)として考察してみました。
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