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【か、カウ…】牛金【ゴールド…?】
8: 2002/11/02(土) 12:47 ぐっこ 2002年02月19日火曜日 01時33分 え!? 牛金じゃなかったんですか!? がーん! というか、三国志5あたりの辞書で見たきりだったんですが…そんなにも入り組んだ話だったのですか! 黒竜様、玉さま、NOBさま、情報ありがとうございます! …「晋書[冓斗]注」!? また新たなアイテムが!(;^_^A ああ、三国志集解もまだ読んでないのに…(T.T)
9: 2002/11/02(土) 12:47 NOB 2002年02月19日火曜日 15時39分 黒竜さん、先走ってしまいすみません(^-^; > 「司馬懿は予言を信じて牛金を殺したけれど運命には抗えずしっかり牛氏の血統は残りました」 > という話だったのが、より直接的に変わっていったんじゃないでしょうか? 私も最初、伝えられる話の内容そのものが意図的に変遷させられたものだと思ったのですが、『晋陽秋』で「牛欽」とあったことを考えると、きっかけは単純に「欽」と「金」をどこかで誤写しただけなのではないかという気もしてきました。 >玉川さん 『[冓斗]注』は台湾の芸文印書館から「注疏本二十四史シリーズ(名称うろ覚え)」として『三國志集解』などと一緒に出ていますので、入手は可能かと思います。私は琳琅閣書店の夏季セールで7700円で購入しました。通常時だと1万2千円くらいでしょうか? 自分が翻訳する場所については注釈の参考にもなりますし、コピーなどしておいた方がいいかもしれません。でも玉川さんはかなり読まれているので、いっそ買ってしまっても損になることはないと思いますよ(^-^) 夏まで待てば、琳琅閣書店は3割引きになりますよ♪ どうでもいいことですが『晋書[冓斗]注』は『三國志集解』に比べると活字が汚い、というか手書きで明朝体(宋朝体)を書いたような感じです(笑) ところで、晋書って逸話や小説の類も何でも取り込んでしまったため「二十四史中最悪」とも評されたりしていますが、元帝の出自の話などのような志怪逸話みたいなものは全部各伝の末尾に分けて記述されていますよね。(とはいっても、羊[示古]伝・杜預伝で確認しただけですが//爆) そのように史実と逸話をはっきり区別しているところに編纂者の歴史家としてのポリシーが垣間見られる気がしますし、晋書の読み方のヒントになるような気がしました。って、そんなのは当たり前だって言われそうですが(笑)
10: 2002/11/02(土) 12:48 中根東竜 2002年02月20日水曜日 00時43分 『晉書』の話題が出ると登場する、中根です(笑) >「或いは曰く、(司馬)睿の母、実は琅邪(王・司馬覲)の小吏牛金と通じて睿を生めり、と」 明の庶民向け歴史書、馮夢竜の『智嚢』(ちのう) にも似た記述があります。 まあ、庶民が読む本ではこういう誤りが流布していたんでしょうね・・ 世界ふし○発見でトンデモ本が良く出るようなものなのかなぁ。 >NOBさん >ところで、晋書って逸話や小説の類も何でも取り込んでしまったため「二十四史中最悪」とも評されたりしていますが、 基本的な評価としては、それはあたらないですね。 『晉書』は『三國志』よりも評判が悪いのですが、 それでも他の本よりはずっといいとされているようですよ。 正史を全部読んで研究ノートを書いた 趙翼先生という清の歴史家の意見はこんな感じです。 「『晉書』はおかしな逸話が多いが、それでも文章も上手いし『魏書』『宋書』よりは遙かに上だ。(中略)『十六國春秋』(五胡十六国の野史)とは比べものにならない」 (趙翼『二十二史剳記』より、意訳) 『晉書辞典』もこれに賛成のようです。ここらへんが妥当な 定説じゃないかな、と思いますが。 >元帝の出自の話などのような志怪逸話みたいなものは全部各伝の末尾に分けて記述されていますよね。 これは確かにそうですねぇ。うーん僕はこれまで気づかなかった・・ やはり、作者たち(『晉書』は18人のスタッフの分担執筆) の史料に対する見識なのでしょうか?
11: 2002/11/02(土) 12:48 NOB 2002年02月20日水曜日 17時30分 中根さんありがとうございます。 実は『廿二史箚記』(の電子テキストの一部?)も『晋書辞典』も持っているのですが、読んでいないことを暴露していますね、自分(爆) 卒論も終わったので、ゆるゆると読んでいこうと思います。『廿二史箚記』はともかく、『晋書辞典』の方は一石数鳥ですし。 #っていうか、読みたいもの多過ぎ…消費量が追いつきません。 どこで刷り込まれたのか忘れてしまいましたが、「正史中最悪」という強いインパクトだけが頭に残っていました(^-^; まぁ、それならそれで「どういうふうに変なネタが紛れ込んだのか」というのも非常に興味があるところなのですが。 すみません、ネタが牛金からどんどん離れてしまいました。というわけでsage〜(←無い)
12: 2002/11/02(土) 12:48 クェン 2002年02月20日水曜日 23時32分 こんばんわ。こちらには初めて書かせていただきます。 牛金って特攻したくせに敵に囲まれ右往左往…三国志で特攻に失敗したのって牛金だけですよね(史書に書かれてる限りでは)。 後で曹仁に怒られなかったのだろうか。
13: 2002/11/02(土) 12:48 ぐっこ 2002年02月21日木曜日 20時54分 >晋書 わたしもどこかで「晋書最悪」の強烈なイメージが刷り込まれてますが…(^-^; どこだろ…大澤教官の三国時代あたりかもしれない…。 ですが、なるほど、史書としての評価は低くなかったんですね! ああよかった…。 まあ妙な逸話を正史に盛り込む程度なら他のもやってるでしょうし…「文章が優れている」というのも初めて知りました! それに怪しげな話は後ろの方でコソーリやっているというのも、感心です! ううむ…本家中国での評価は高い、と。 …晋書辞典!? …おっそろしく奥が深い…史学は広大だわ…(素子風)。 >牛金 そうそう、最初はこの話だったんですよね(^_^; クェンさまようこそ〜。 牛金も、あんがい活躍してる人ですのにね〜。後将軍まで上ってるし、馬岱をうち破ってるし、司馬懿に毒を盛られて死ぬという胡散臭い話(^-^;の時は、「父上!あれほどの名将をなぜ!」と司馬師を嘆かせたり… ちなみに特効失敗のエピソード、よく読んでみると、かなり無茶な話です。「周瑜率いる数千の軍が到着」とあるのに対し、「曹仁は兵300人を集めて曲将・牛金に攻めさせた」と…。 曹仁! 魏随一の猛将・曹仁! 数千人の、しかも周瑜の率いる大部隊に、300人で攻めさせる曹仁! こりゃあ牛金が可哀想すぎます(^_^; 曹仁もこう思ったことでしょう。 「正直、すまんかった」 と。
14: 2002/11/02(土) 12:49 クェン 2002年02月22日金曜日 00時26分 晋書よりも良い歴史書は多いが、より悪い歴史書はもっと多い、といったところでしょうか。三国志と史記くらいしかよく知らない私にとっては、どうしてもこの2冊が基準になってしまうので、今まで晋書に良いイメージを持って無かったです(陳寿のゴシップ満載と聞いていたし)。ろくに知らないのに・・・いかんなあ自分。 >数千人の、しかも周瑜の率いる大部隊に、300人で攻めさせる曹仁!こりゃあ牛金が可哀想すぎます(^_^; う、こりゃ確かに可哀そ・・・。そうすると曹仁が数十騎を率いて救出したのも、謝罪の意かもしれませんね。 または牛金だったら、これくらい出来ると期待されていたのかも・・・それは無い!?
15: 2002/11/02(土) 12:49 もす 2002年02月22日金曜日 21時55分 >「周瑜率いる数千の軍が到着」 曹仁のネタが出たので登場(笑) これって、周瑜が率いたんでしょうか? ちくまには「周瑜率いる数万人。先発隊数千人が到着した時、300人を募って牛金に対抗させた」(要約)となってまして、ちくまに沿うならば(笑)、おそらくは周瑜は到着していなさそうッス。 個人的に考えているのは甘寧、呂蒙、リョウ統などですが、まぁ、憶測ですね(爆) また、300人で対抗させたのは「足止め」や「威嚇」、及び「鼓舞」が理由だと思いますよ(^^) 「足止め」とは敵の鋭鋒を食い止める事。 そこから派生して、「足止め」によって敵に自分達が油断ならない存在である事を知らせて意気を挫いたり(「威嚇」)、「足止め」の成功で味方の士気を上げる(「鼓舞」)など。 「先発隊」を食い止めても後ろに数万人が控えているワケで、数千人(3000人位?)の江陵城中の兵力からすると「先発隊数千人」に対抗するのは「数百人」になるのは致し方ないでしょう。 勿論、江陵城中の全兵力を以って先発隊を破ろうとするのも手ではありますが、曹操から「負けない」から認められ、「負けない」が身上である曹仁がそのような危ない橋を渡る事は考え辛いでっす。彼に与えられた使命は「敵を破る事」ではなく「曹操が陣営を立て直す時間稼ぎをする事」なのですから(^^)
16: 2002/11/02(土) 12:49 もす 2002年02月22日金曜日 21時58分 >曹操から「負けない」から認められ あ、すいません。これ、自分の考えでした(^^ゞ 書き終えた後で削るつもりだったんですが。。失礼しました。
17: 2002/11/02(土) 12:50 ぐっこ 2002年02月22日金曜日 23時23分 >クェン様 晋書、私も腰を落ち着けてじっくり読みたいです…。陳寿についてチクチク書いているらしいですが、実は私読んでない(^_^; こんど電子文献で読みます〜。 牛金、ゲームでは一時武力80代後半という、曹仁よりも強い男でした(^_^; >もす様 うーむ。もす様の言に10000ムネオ! いま吉川三国志読み直しててたら、当の牛金が「士気高揚のために一当てさせてください」とか申し出てたり…。たしかに守ってるだけだと叩かれ放題ですものね…。 「先鋒隊」あ、ホントだ(^_^; ところでひとつ疑問が派生したのですが、曹操が烏林・赤壁へ連れて行った兵力というのは、どれくらいのものだったんでしょうか? 「曹操軍十万〜二十万余」というのは荊州留守組を含んだ数字だと思うんですが、コイツらはどこへ? もす様の仰るように、江陵の防御に当たってたのは数千規模でしょう。やろうと思えば数万の軍も駐留できる前進基地なのに…。 まさか二十万のほとんどが烏林へゾロゾロ押し掛けたのか、逆に樊・襄陽でマターリとしていたのか…。
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